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[11] どこから
日時: 2012/02/11 21:48
名前: 管理人 ID:.nuThAD2

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北阿万伊賀野でa平焼を始めたようですが、生まれも北阿万伊賀野と考えて良いのでしょうか?
やはり、焼き物をする場合は良い土が必要と思われます。
伊賀野はどうかわかりませんが、阿万には良い土が出るようです。
阿万に瓦屋さんが多い理由も、その辺にないでしょうか?

でも、学生時代に賀集と言う苗字の方に一人も出会わなかったな〜
メンテ

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賀集地域の歴史 ( No.23 )
日時: 2012/06/18 01:28
名前: 土狸 ID:fiL4LOno

賀集郷(古代)

平安期に見える郷名。
「和名抄」淡路国三原郡七郷の1つ。訓は「加之乎」。高山寺本は当郷を記載しない。
都と四国を結ぶ南海道は郷内を通過し、福良駅が設置されていた。
三原平野の西南部、江戸期の賀集中村・八幡村・立川瀬村・西山北村・西山中村・西山南村・福良浦・鍛冶屋村・福井村・筒井村・新田北村・新田中村・新田南村・生子(せいご)村・内ヶ原村・伊賀野村の地に比定されている(淡路常磐草)。


賀集荘(中世)

鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。
三原郡のうち。建久3年3月日付後白河院庁下文案に「淡路国福良・賀集荘〈高野宝塔三昧院領〉」とあり、勅事・院事・国役以下の課役を停止されている(大徳寺文書/鎌遺584)。
領家の高野山宝塔三昧院は後白河院の御願によって創建、のちに同院寵妃の高階栄子が願主となり、宝幢院と改号した。
建仁3年10月20日付紀伊国司庁宣には「宝幢院米 淡路国 賀志尾荘」と見える。
当荘からの年貢船は「賀集船」と称し、紀伊国衙の差課す所課を免除された(高野山文書/鎌遺1387・1393)。
貞応2年の淡路国大田文には高野宝幢院領として「賀集庄〈前地頭左近将監忠光国御家人、新地頭船越右衛門尉〉田百廿丁 畠」とある。
地頭は国御家人左近将監忠光であったが、承久の乱後は長田村・慶野荘の地頭を兼ねる関東御家人船越右衛門尉が新地頭となった。
この後、当荘から西山荘が分立、領家職は後白河院女宣陽門院の管領となり、六条殿長講堂に寄進された。
文和2年3月5日付三条公秀譲状には「一、長講堂領淡路国福良賀集西山三箇庄」(加賀前田家蔵文書/大日料6-17)、また応永14年3月日付宣陽門院御領目録にも「同国福良賀集庄 三条宰相中将家」とある(八代恒治氏所蔵文書/同前7-8)。
この間、預所職は三条公秀・実継・公豊・実豊・公雅と三条流藤原氏が相伝している。
荘内には高野山鎮守の丹生神社が鎮座したが、のちに賀集八幡宮が祀られた。
同宮別当寺は賀集寺で、のちに護国寺とよばれた。
暦応3年、淡路平定のため阿波より上陸した細川師氏は、賀集山城ヶ丸に陣を取り、賀集八幡宮に願をかけて、南朝方に大勝した(護国寺文書・三原郡史)。
この後も賀集八幡宮は代々淡路守護細川氏の崇敬を受けた。
文和2年10月には法性寺中将ら南党が「淡州賀集庄丹山」に陣を取ったため、細川春氏に率いられた船越氏ら北朝方がこれに対峙している(記録御用所本古文書/大日料6-18)。
室町期には荘内の土豪賀集氏が活動、嘉吉2年10月には賀集次郎左衛門康愛が見え、長禄2年8月には賀集美濃守公文、文明3年2月には賀集美濃守安親らが所領を賀集八幡宮に寄進している(味地草・護国寺文書)。
戦国期には賀集木工助盛政が三好氏の下で活躍したが、天正11年に淡路を離れた(三原郡史)。
現在、南淡町賀集の小字城の腰に同氏の居館跡がある(城館荘園遺跡)。
文明2年8月11日付番役差定によれば護国寺御番所の番役が野田村・高萩村・西山村・法花寺村・牛内村・鍛冶屋村・中村・忌部村・立川瀬村に割り当てられているが、これらは当荘内に成立した村々とみられる(護国寺文書)。
現在の南淡町賀集および同町の賀集を冠称する地域に比定される。


賀集村(近代)

明治10〜22年の村名。
三原郡のうち。賀集中村・鍛冶屋村が合併して成立。
明治19年賀集村外2村戸長役場設置。
同22年賀集村賀集賀集組・賀集鍛冶屋組となる。
なお、同24年の戸数280、人口は男643・女690。


賀集村(近代)

明治22年〜昭和30年の三原郡の自治体名。
賀集村・福井村・八幡村が合併して成立。
賀集賀集組・賀集鍛冶屋組・福井福井組・福井野田組・福井生子組・福井内ヶ原組・福井長原組・福井牛内組・八幡八幡組・八幡南組・八幡中組・八幡北村組・八幡立川瀬組の13大字を編成。
明治24年の戸数1,098、人口は男2,397・女2,566。
大正12年淡路鉄道賀集駅、昭和8年御陵東駅が開設された。
同30年南淡町の一部となり、13大字は同町賀集・賀集鍛治屋・賀集福井・賀集野田・賀集生子・賀集内ヶ原・賀集長原・賀集牛内・賀集八幡・賀集八幡南・賀集八幡中・賀集八幡北・賀集立川瀬となる。


淡路島の地名「賀集(かしゅう)」
http://www.yumekaiyu.com/blog/log/eid302.html

三原平野の西南部に位置し、淳仁天皇陵や護国寺のある南あわじ市賀集は、「和名抄」にでてくる「賀集郷」の地である。
1203(建仁3)年の「紀伊国司庁宣」には「賀志尾」と記されているが、その他のものは「賀集」と表記している。
「和名抄」には「加之乎(か・し・お)」と注があり、中世の「護国寺文書」には「かしお」、「かしう」とある。
また1586(天正14)年の「淡路国御蔵入目録」には「かしう」とあり、豊臣秀吉の蔵入り地となっている。
したがって「賀集」は、「かしお」、「かしう」、「かしゅう」と変化してきたのである。
この「かしお」の由来については諸説があるが、一般には「鹿塩」すなわち塩漬けにした鹿の肉からきているといわれている。
賀集地区には鹿子(かのこ)西谷、鹿子奥、鹿子北谷など字名のほか鹿の子池などがある。
「日本国語大辞典」によると、鹿子の語源は「鹿(か)の毛(け)」であり、鹿(しか)の子、転じて鹿そのものをさすという。
「かしお」の「か」は鹿であり、「しお」は塩だというのである。
このほか橿(かし)の木の生えている所という意味の「橿生」、「橿尾」説、神が集まるという「神集」説、「橿丘」で土のよい所からきたなどの説もあるが、いずれとも決しがたい。
賀集八幡の集落に「印部」という小字があるのが注目される。
1470(文明2)年の「護国寺結番定書」という文書に、「忌部村」が出てくるし、「淡路常磐草」には「忌部は八幡村の旧名なるべし」とある。
「印部」は「忌部」が変化したものである。
忌部とは古代に朝廷の祭祀(さい・し)をつかさどった集団で、身を清めて神事に携わったことからきた名称だという。
諸国の忌部は朝廷の祭祀に必要な品物を整え、中央の忌部に送ったといわれるので、この印部の地に忌部の集団が存在した可能性がある。


賀集の春まつり
http://mitikusa007.blog107.fc2.com/blog-entry-92.html

賀集郷の地は、「かしゅう」呼んでおり『和名抄』には、「加之乎」(かしお)と訓註がついている。
又『護国寺文書』には、「かしお」「かしう」と記されている。
「賀集」は「鹿集」であると、一般に言われています。
此の語源として、鹿塩即ち塩漬けした鹿の肉から来ている。
鹿を意味する。
賀集には、「鹿」という字名の地が多く存在する。
その他に、「橿生」で、橿の木がある地、又「橿尾」、或いは、神が集まる地「神集」と呼ばれていました。
護国寺は山号を賀集山と称し、賀集寺とも呼ばれていた。
神仏分離の際、明治以降は、賀集荘の鎮守であった賀集八幡宮の別当寺であった。
護国寺には、鎌倉時代前期から近代に至る約3000点の古文書が伝来し、内約60点は中世文書が含まれている。
中世文書には、賀集八幡宮の祭祀・祭礼・所領・信仰に関する物が中心となっている。
石清水八幡宮の荘園であったと言うことは確認出来ていない。 ※釈文『兵庫県史』


淡路人形浄瑠璃の起源
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/1719/awajinin1.htm

起源についてはいろいろの説があるが、『淡路草』(原著文政八年・千八百二十五−藤井容信・彰民 名著出版復刻昭和五十年)所載の淡路人形始祖「上村源之丞所蔵之書」によれば、西宮戎社に仕えていた夷かき(愧儡師)百太夫が木偶を携えて全国の神々を鎮めて巡る途中、三条村(三原町市三条)に留まり、引田(後に上村)家に入婿し、木偶操りの技を伝えたのに始まるという。
三条の八幡神社には脇宮として百太夫を祀った社があり、同神社前には淡路人形発祥地の碑も建てられている。

このように西宮から夷神信仰とともに木偶操りが三条村を中心に入ってきたことについては、そこにそれを受け入れる素地があったのであろうと考えられている(『三原郡史』編集委員会代表菊川兼男 郡町村会事務所昭和五十四年)。
三条のあたりは古代・中世にかけて淡路国の政治文化の中心地で国衙が置かれ、近隣に総社があり、多くの伶人(楽人)を抱えていた。
南北朝時代に入り国衙の廃退とともに総社も衰退し、その後淡路に入国した守護細川氏が崇敬した賀集八幡宮(南淡町)が栄えた。
「護国寺文書」によると、賀集八幡宮は、多数の伶人を抱えて淡路の諸寺諸山のの供養に奉仕した。
そのために一時は楽料田が三十町歩もあった。
今総社のあたり三原町市三条に「ガク」、市新に「ガクデン」という小字名があるが(護国寺文書に国司が留守所に楽料田の開発を命じた鎌倉初期の元久二年・千二百五の庁宣がある)、それは賀集八幡宮の楽人たちが神社の周辺でなく総社のあたりに住んでいたのだろう。
この賀集八幡宮に隷属した楽人たちは、南北朝以前は国衙と総社に隷属していたと思われる。
それが室町末の細川氏の衰退とともに舞楽奉仕も行われなくなったので、楽人たちが西宮から夷廻しや上方から三番叟を受け入れた。
すなわち淡路人形操りが浄瑠璃芝居となる以前、中世前期には国衙と総社に隷属し、後期には賀集八幡宮に隷属した神事舞いを職業とした人たちがいて、上方から三番叟、西宮から戎舞をうけいれたその伶人たちが、細川氏没落後は生活の手段を人形操りに求めたのでなかろうか。
メンテ

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