武岡豊太 ( No.9 ) |
- 日時: 2012/02/16 22:26
- 名前: 土狸 ID:FGgO7rHk
- 武岡豊太
1864(元治元)年、三原郡伊賀野村(現南あわじ市北阿万伊賀野)に生まれる。
14歳で小学校の授業生(補助教員)になり、後に賀集小学校の訓導(現在の教諭にあたる)となった。
1886(明治19)年、三原郡国衙村出身の明石郡長藤井一郎の引き立てで明石郡役所に奉職(明石郡は今の明石市と神戸市の一部)。 翌年、藤井は明石郡長を退き、後任に渡辺徹という人物が就いたが、豊太は渡辺にもかわいがられた。
渡辺は東久世通禧の家臣として1863年(文久3)年の七卿落ちに随ったとされる人物で、長州の品川弥二郎にも近く、豊太はのちに渡辺を介して品川や東久世にも知られた。
渡辺は1年余りで明石郡長を辞任し、その後御影町長(1889−90年)や衆議院議員(1892年)を務めたりする一方、御影で自ら酒造業を営み、全国の酒造組合の代表、銀行の役員なども務めた。
豊太は、渡辺に随って御影に移り、灘酒造組合の世話をするなどし、実業界に入った。 1891(明治24)年ごろ、豊太は、兵庫共済株式会社の社長に就任した。 兵庫共済は、和田岬において和楽園という遊園地を経営する会社であった(ちなみに、和楽園には、1897年に第2回水産博覧会の目玉として日本最初の水族館ともいわれる和楽園水族館が設置された。 この水族館は、1902年に湊川神社内に移され、兵庫共済株式会社が引き続き経営)。 和楽園は立地条件の悪さからか経営が厳しく、その敷地はのちに三菱造船所に売却されている(現在の三菱重工神戸造船所)。
神戸には古戦場として有名な湊川という川があるが、たびたび氾濫を起こしたことと、交通の障害になっていたことから、明治初期からその改修(付け替え)が課題であった。 しかし行政の側は民間事業としてすべて私費でやるなら認めるという態度で、資金のかかる工事にはなかなか手がつけられなかった。
1895(明治28)年ごろに至り、地元有力者や財界人(大阪の藤田伝三郎、鴻池善右衛門、兵庫の小曽根喜一郎、滝川弁三、東京の大倉喜八郎ら)が共同して会社組織で行う計画を立てたが、「公共の大事業を民間の営利企業には任せられない」という意見や、付け替え後の河川の近隣住民の反対運動が立ちはだかった。
そのとき、1896年8月、湊川の氾濫による大水害が起こった。 このことも手伝って、神戸市議会は紛糾の末に改修工事を承認、12月には県知事の許可が下りた。 また、会下山の南側に付け替えるという当初案に対し、住民の反対があったため、会下山の北側を通すという案も出たが、最終的には会下山をくり抜くトンネルを造り、そこへ水を通すことになった。 このとき、トンネル案は不可能とする意見すらあったのを、粘り強く説得してまとめあげたのが豊太であるといわれている。
翌1897年6月、湊川改修株式会社(資本金100万円)が発足し、藤井一郎が社長、豊太が支配人に就いた。 同年10月工事は着工。 新湊川は4年の年月をかけて1901年8月に完成したが、工費約100万円、延長4.4キロ、そのうち会下山の下を通したトンネル部分(湊川隧道、日本初の河川トンネル)が約600メートルという大工事であった。
続いて、旧湊川と一部海面の埋め立てに着手するのだが、このときには資本金を使い果たした状態で、工費の目途が立たない状態であった。 このとき30万円を融通し、救ったのが大倉喜八郎である。 豊太は大倉とも深い交流があり、後年大倉に勧めて安養寺山を神戸市へ寄付させ「大倉山」と命名させたのも豊太だったという。 また、このときにどういう事情からか湊川改修株式会社の社長が藤井から秋山恕卿に替わっている。
旧湊川と一部海面の埋め立ては1906(明治39年)年に完成、このとき旧湊川の河川敷埋め立てによってできたのが「新開地」である。 あとは新造地約25万u(?)を無償で払い下げを受けることになっていたために、これを売却すればよいだけになり、同社は1907(明治40)年に解散、秋山と豊太とが清算人に就いてこの作業に当たった。
1912(大正元)年になり、売却作業も終わり清算結了をした。 新造地の売却によって同社はかなりの収益を得たようである(1株50円の出資に対し122.5円の払戻し)。 そして、終始支配人・清算人として経営を執りしきった豊太にも相当の収入があったものと思われる。
旧湊川の埋め立てでできた新開地はその後神戸一の繁華街として栄えていくわけである(ただし戦後その賑わいは三宮に移っていく)が、その繁栄の中心となったのが聚楽館である。 聚楽館は1913(大正2)年、東京の帝国劇場をモデルに演劇場として建てられた。 豊太はこの聚楽館の経営にも関わった(聚楽館株式会社社長)。 なお、聚楽館はのちに映画館になり、1978年(昭和53)年に閉館、現在はラウンドワンが建っている。
その後の豊太は、会社の役員(湊川土地建物株式会社、神戸土地株式会社など)や神戸市会議員(1915〜17年)を務めたりしているが、国史の研究や浮世絵の収集などに没頭したようである。 国史の研究では、森田節斎、松本奎堂、日柳燕石、乾十郎などを研究し著作を残している(森田節斎は一時淡路にも滞在した人物)。 晩年には神戸史談会の会長も務めている。
1924(大正13)年紺綬褒章受章。
1931(昭和6)年、享年68歳で病没。
没後1938(昭和13年)に建てられた豊太の頌徳碑があわじ島農協北阿万支所の前にある。
現在のあわじ島農協北阿万支所はもとは北阿万村役場のあったところで、この役場の敷地を豊太が提供したという。 実際登記簿を調べると、大正6年に豊太の母から北阿万村へ無償で提供されたことになっている。
(参照:http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00747060&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA)
神戸の発展に寄与した偉人の一人です。
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