掲示板

スレッド一覧 > 記事閲覧
[11] どこから
日時: 2012/02/11 21:48
名前: 管理人 ID:.nuThAD2

新規スレを作成しました。

北阿万伊賀野でa平焼を始めたようですが、生まれも北阿万伊賀野と考えて良いのでしょうか?
やはり、焼き物をする場合は良い土が必要と思われます。
伊賀野はどうかわかりませんが、阿万には良い土が出るようです。
阿万に瓦屋さんが多い理由も、その辺にないでしょうか?

でも、学生時代に賀集と言う苗字の方に一人も出会わなかったな〜
メンテ

Page: 1 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

たしかに ( No.1 )
日時: 2012/02/11 23:12
名前: 管理人 ID:.nuThAD2

読み直していると、資料の中に阿万伊賀野に生まれたとありますね。
こうなると、賀集新九郎の家が福井に存在するのと不一致となります。

本家、分家と何件かあったのかもですね。
メンテ
a平焼と賀集寅次郎について ( No.2 )
日時: 2012/02/11 23:22
名前: 土狸 ID:zeDKIJgQ

淡路(民平)焼きについて

この島の賀集(地名)で江戸後期に民平が起こした焼き物の里がありました。
現在、窯は廃れましたが、技術はこれを前身としたタイル専門の「淡陶株式会社」に引き継がれています。

淡路焼(民平焼)文政年間(1818-30)、兵庫県淡路島三原郡稲田村(南淡町伊賀野─賀集)の賀集民平が創業した。
民平は幼名を豊之助といい代々稲田村に住み所有地18町(18h)もあり、醤油醸造を業としていた。
性格は先進的であり、常々『淡路は四方を海に囲まれ土地が狭く人が多い、これが貧困者の多い理由であり、これを救うには海産を盛んにすることにある』と言っていた。
そして、二百六、七十人の漁夫を使って近海漁業を行ったが利益が上がらず、そこで和泉の国(大阪府)に行って大網の製造し、ますます漁業に努めた。
ここで偶然京都の尾形周平に遭い製陶のことを話し合い、後に淡路の由良に行った帰りに池ノ内村の白土山麓に来たとき周平の話を思い出し試みに白土を持ち帰り楽焼きの茶碗を数十個造った。
また、黄南京を模作しょうと試みたがうまくいかなかった。
その後、漁業はますます損失が大きくなり、ついには廃業を決意したが、楽陶の方はやや堅硬な器を作るようになっていた。
1829(文政12)には醤油の本業もやめ、もっぱら製陶に従事して黄色、青色の釉薬を発明している。
1834(天保5)には京都から周平を連れてきて共に陶事を研究したが、二年で周平は去った。
民平はますます熱心となり、所有の土地を売って資金にあてた。
村長の弟や親族もこれらを応援した。
その後、1838年には茶褐釉,鬱白陶を創製した。
1842には藩主蜂須賀氏はこれを聞いて度々視察し資金を出して官窯を築き、民平に統括させた。
1843には中国青花陶、絵高麗、艶黒の諸釉を発明している。
このころには初期に制作した黄彩陶が遠近に売れて一時は売り上げが近隣十一け村の収穫した米価に相当したといわれる。
その後、一時不況になった時期もあったが、民平の子の三平が官窯を買って独立した。
その子力太が病弱で廃業しかかったが、これを惜しんで、袴田善次郎が本窯を買い上げ (1883)て回復した。
民平焼きは田村久平が洲本に窯を起こし、1897(明治30)頃にはおのころ焼、茶金釉などを出した。
淡路焼きはその規模を拡大し、また品種を一新して近年はタイルの専門製造に移っていった。
現在の淡陶株式会社はその後身である。
民平の作品は土質が柔らかく、彩画が鮮やかで、京都粟田焼に似ていると評される。 (出典:加藤唐九郎編-陶磁器大辞典)


とありますね。

稲田村とは現在の南あわじ市北阿万稲田南に当たるそうです。
詳しい場所はわかりませんが、伊賀野と賀集の間にあるのでしょうか?


また、賀集寅次郎に関してこんな記事がありました。


淡路自助社─淡路自由民権運動─

明治七(一八七四)年、薩長藩閥専制に対抗して民選議院設立建白を契機に始まった自由民権運動は、兵庫県域では淡路、丹波で比較的盛んだったが、摂津、但馬では低調であった。

徳島自助社は、この官選に反対し、名東県権令に対して区長、戸長(郡長、村長にあたる)の民選を主張している。
この動きに呼応して、明治八(一八七五)年七月一日、第十一大区(三原郡)区長賀集寅次郎は、淡路国人民惣代として民選に関する建白書の草稿を元老院にあてて作っている。
実際は建白されたのかどうかわからないが、これが県下における最初の具体的な民権運動であった。
淡路から参加した人数は明らかではないが、士族や財産家、地主層が主だったと考えられる。
メンテ
賀集院太郎 ( No.3 )
日時: 2012/02/12 00:02
名前: 土狸 ID:eafqjq2Q

賀集院太郎という脚本家の方がいるようですが賀集家と関係があるのでしょうか?
ちょっと気になりました。
メンテ
激動の時代? ( No.4 )
日時: 2012/02/12 00:48
名前: 管理人 ID:m9KG6lGk

賀集院太郎は、私もGoogleで検索して出てきたので気になってました。
でも、まったく検討もつかないです。
現在の賀集一族は気になるところです。

あと、1960年の映画ロケ。1965年に火事で全焼。1966年淡路鉄道の廃止。
この動きの早さは何でしょう?
火事と鉄道廃止は因果関係ないにしろ、火事って〜
メンテ
伊賀野 ( No.5 )
日時: 2012/02/17 14:29
名前: 管理人 ID:9945cT6A

>稲田村とは現在の南あわじ市北阿万稲田南に当たるそうです。

Googleマップで見ました。
結構、私の実家(賀集)に近いのに驚き。
良く、私の母親が「伊賀野」「伊賀野」って言ってたのですが、私自身は「伊賀野」の場所は知りませんでした。


追記 2012.02.16)

再度、Googleマップで確認しました。
「伊賀野」は、国道28号線をはさんだ北阿万の中心部ですね。
私も思いだしました。
近くにダントーさんの工場もあるようです。
「伊賀野」から、大日ダムの方へ上がっていったところが「稲田南」ですね。
「稲田南」の付近を通る新しくできた広い道が「オニオンロード」って言われるヤツでしょうか?
すいません、淡路島を離れて長いもので正確なことは言えません。
a平焼紹介のサイトで、このへんでa平焼の遺跡調査したような記事を見かけました。
この、「オニオンロード」で「賀集高萩(福井)」「賀集生子」とつながってます。
近くですね。


追記 2012.02.17)

「伊賀野」は、国道28号線をはさんだ北阿万の中心部と書きましたが間違いです。
国道28号線ではなく、県道です。
県道は、国衙から阿万にむかって走る以前の中心の道です。
また、「伊賀野」は北阿万の中心地と言うより、少し阿万よりのところですね。
すいませんでした。
メンテ
郷土の歴史を知ること ( No.6 )
日時: 2012/02/14 01:29
名前: 管理人 ID:zVxYsuTE

今回、淡路島出身の有名人について調べたり、掲示板に書いたりしているうちに思ったことがあります。

なんて私は郷土である淡路島の歴史などについて知らないかと言うことです。
今、神戸に暮らすようになって淡路島の歴史などに興味を持つようになりました。
でも、淡路島に住んでいた子供のころに淡路島の歴史に触れていたら、淡路島により興味を持ち、そして、より愛着を持つようなったと思います。
誇りを持つようになっていたかもしれません。

学校の授業では、日本史や世界史を習います。
でも、絶対に自分たちの住んでいる郷土の歴史も学校で習うべきと思いますね。
そうすることで自分たちの郷土に誇りを持つようになり、より地域の発展に貢献したいと思うようになると思います。

子供のころ通った道沿いにある大きな屋敷跡が何だったのか大人になった今にわかりました。
でも、子供のころに知っていたらどれだけ良かったか!
夢の様な建物のな中で映画ロケが行われたのを知っていたらどれだけ楽しいか!

ぜひ、この屋敷跡の前に観光案内の石碑でも作ってくれたらと思います。
映画のロケが行われた事。
むかし鉄道が走り、その創設者の屋敷である事。
これらを書いた石碑でもあればと思います。
きっと地元の子供たちに夢を与えるのではと思います。
あるいは観光資源の一つとして観光客の誘致にもつながるかもしれません。
数は少ないでしょうが〜

こんな事を考えてみました。
メンテ
1坪が3.3uとして計算すると ( No.7 )
日時: 2012/02/15 18:11
名前: 管理人 ID:z8RmO48s

賀集新九郎邸の敷地面積は3500坪だと言います。
1坪が3.3uとして計算すると11550uとなります。

比較対象として下記の広さをwikipediaより記述します。

甲子園球場のグランド面積 = 13000u
東京ドームグランド面積 = 13000u
メンテ
年表 ( No.8 )
日時: 2012/02/16 18:38
名前: 管理人 ID:Tm1Fnwfw

ネットサーフィンをしていましたら、こんなのが見つかりました。
フリーページに作られたサイトで、サイトの運営者は良くわからないし、出典もさだかではありませんが何かの参考にはなりそうです。

これからは、以下のことがわかります。

・1914年に淡賀集新九郎氏が淡路鉄道鰍フ設立。
・1922年に鉄道の営業開始。
・1922年に全淡自動車鰍フ設立。
・1942年に賀集新九郎氏が死去。
・1943年に淡路鉄道鰍ニ全淡自動車鰍ェ合併して淡路交通鰍ェできる。
・1966年に鉄道の廃止。
・1976年に賀集新九郎顕彰碑が、賀集八幡神社境内に移転。

参考サイト
http://web2.nazca.co.jp/kk36zx/page024.html

正確な情報は、淡路交通さんのサイトにも載っているようです。
個別ページのリンクは、「ダメよ!」ってなってましたので、リンクを貼るのを止めます。
メンテ
武岡豊太 ( No.9 )
日時: 2012/02/16 22:26
名前: 土狸 ID:FGgO7rHk

武岡豊太

1864(元治元)年、三原郡伊賀野村(現南あわじ市北阿万伊賀野)に生まれる。

14歳で小学校の授業生(補助教員)になり、後に賀集小学校の訓導(現在の教諭にあたる)となった。

1886(明治19)年、三原郡国衙村出身の明石郡長藤井一郎の引き立てで明石郡役所に奉職(明石郡は今の明石市と神戸市の一部)。
翌年、藤井は明石郡長を退き、後任に渡辺徹という人物が就いたが、豊太は渡辺にもかわいがられた。

渡辺は東久世通禧の家臣として1863年(文久3)年の七卿落ちに随ったとされる人物で、長州の品川弥二郎にも近く、豊太はのちに渡辺を介して品川や東久世にも知られた。

渡辺は1年余りで明石郡長を辞任し、その後御影町長(1889−90年)や衆議院議員(1892年)を務めたりする一方、御影で自ら酒造業を営み、全国の酒造組合の代表、銀行の役員なども務めた。

豊太は、渡辺に随って御影に移り、灘酒造組合の世話をするなどし、実業界に入った。
1891(明治24)年ごろ、豊太は、兵庫共済株式会社の社長に就任した。
兵庫共済は、和田岬において和楽園という遊園地を経営する会社であった(ちなみに、和楽園には、1897年に第2回水産博覧会の目玉として日本最初の水族館ともいわれる和楽園水族館が設置された。
この水族館は、1902年に湊川神社内に移され、兵庫共済株式会社が引き続き経営)。
和楽園は立地条件の悪さからか経営が厳しく、その敷地はのちに三菱造船所に売却されている(現在の三菱重工神戸造船所)。

神戸には古戦場として有名な湊川という川があるが、たびたび氾濫を起こしたことと、交通の障害になっていたことから、明治初期からその改修(付け替え)が課題であった。
しかし行政の側は民間事業としてすべて私費でやるなら認めるという態度で、資金のかかる工事にはなかなか手がつけられなかった。

1895(明治28)年ごろに至り、地元有力者や財界人(大阪の藤田伝三郎、鴻池善右衛門、兵庫の小曽根喜一郎、滝川弁三、東京の大倉喜八郎ら)が共同して会社組織で行う計画を立てたが、「公共の大事業を民間の営利企業には任せられない」という意見や、付け替え後の河川の近隣住民の反対運動が立ちはだかった。

そのとき、1896年8月、湊川の氾濫による大水害が起こった。
このことも手伝って、神戸市議会は紛糾の末に改修工事を承認、12月には県知事の許可が下りた。
また、会下山の南側に付け替えるという当初案に対し、住民の反対があったため、会下山の北側を通すという案も出たが、最終的には会下山をくり抜くトンネルを造り、そこへ水を通すことになった。
このとき、トンネル案は不可能とする意見すらあったのを、粘り強く説得してまとめあげたのが豊太であるといわれている。

翌1897年6月、湊川改修株式会社(資本金100万円)が発足し、藤井一郎が社長、豊太が支配人に就いた。
同年10月工事は着工。
新湊川は4年の年月をかけて1901年8月に完成したが、工費約100万円、延長4.4キロ、そのうち会下山の下を通したトンネル部分(湊川隧道、日本初の河川トンネル)が約600メートルという大工事であった。

続いて、旧湊川と一部海面の埋め立てに着手するのだが、このときには資本金を使い果たした状態で、工費の目途が立たない状態であった。
このとき30万円を融通し、救ったのが大倉喜八郎である。
豊太は大倉とも深い交流があり、後年大倉に勧めて安養寺山を神戸市へ寄付させ「大倉山」と命名させたのも豊太だったという。
また、このときにどういう事情からか湊川改修株式会社の社長が藤井から秋山恕卿に替わっている。

旧湊川と一部海面の埋め立ては1906(明治39年)年に完成、このとき旧湊川の河川敷埋め立てによってできたのが「新開地」である。
あとは新造地約25万u(?)を無償で払い下げを受けることになっていたために、これを売却すればよいだけになり、同社は1907(明治40)年に解散、秋山と豊太とが清算人に就いてこの作業に当たった。

1912(大正元)年になり、売却作業も終わり清算結了をした。
新造地の売却によって同社はかなりの収益を得たようである(1株50円の出資に対し122.5円の払戻し)。
そして、終始支配人・清算人として経営を執りしきった豊太にも相当の収入があったものと思われる。

旧湊川の埋め立てでできた新開地はその後神戸一の繁華街として栄えていくわけである(ただし戦後その賑わいは三宮に移っていく)が、その繁栄の中心となったのが聚楽館である。
聚楽館は1913(大正2)年、東京の帝国劇場をモデルに演劇場として建てられた。
豊太はこの聚楽館の経営にも関わった(聚楽館株式会社社長)。
なお、聚楽館はのちに映画館になり、1978年(昭和53)年に閉館、現在はラウンドワンが建っている。

その後の豊太は、会社の役員(湊川土地建物株式会社、神戸土地株式会社など)や神戸市会議員(1915〜17年)を務めたりしているが、国史の研究や浮世絵の収集などに没頭したようである。
国史の研究では、森田節斎、松本奎堂、日柳燕石、乾十郎などを研究し著作を残している(森田節斎は一時淡路にも滞在した人物)。
晩年には神戸史談会の会長も務めている。

1924(大正13)年紺綬褒章受章。

1931(昭和6)年、享年68歳で病没。

没後1938(昭和13年)に建てられた豊太の頌徳碑があわじ島農協北阿万支所の前にある。

現在のあわじ島農協北阿万支所はもとは北阿万村役場のあったところで、この役場の敷地を豊太が提供したという。
実際登記簿を調べると、大正6年に豊太の母から北阿万村へ無償で提供されたことになっている。

(参照:http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00747060&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA


神戸の発展に寄与した偉人の一人です。
メンテ
北阿万 ( No.10 )
日時: 2012/09/21 10:48
名前: 管理人 ID:l5rjLI9E

私は現在、神戸の湊川界隈に住んでいるのですが、武岡豊太氏の恩恵を受けているようです。
世間は狭いですね。

>豊太は大倉とも深い交流があり、後年大倉に勧めて安養寺山を神戸市へ寄付させ「大倉山」と命名させたのも豊太だったという。

湊川と少し離れてますが、「大倉山」には良く行きます。
そこは、これまた広い敷地に公園、中央図書館、文化ホールなどがあり、良く散歩に行きます。
中央図書館は、私のお気に入りの場所です。
伊賀野出身の武岡豊太と言う方がかかわっていたとは驚きです。

>没後1938(昭和13年)に建てられた豊太の頌徳碑があわじ島農協北阿万支所の前にある。

民平と共に豊太も郷土の誇りでしょうね。
私は賀集で学区が違う為か、民平も豊太も全く知りませんでした。

>現在のあわじ島農協北阿万支所はもとは北阿万村役場のあったところで、この役場の敷地を豊太が提供したという。

北阿万農協と言えば、北阿万牛乳を思い浮かべます。
なにかしら独自の経営をしていた記憶があります。
やりてって言う感じかな。
武岡豊太氏となんらかの関係があるのかな〜
今は、淡路全体で一つになったんでしょうか?
メンテ
北阿万の風景写真 ( No.11 )
日時: 2012/03/25 23:21
名前: 管理人 ID:Vi5nkfsE

北阿万の風景を紹介したサイトがありました。

貼っときます。

大日ダムが写ってますね。

それと北阿万農協もが写ってます。
1938(昭和13年)に建てられたと言う武岡豊太の頌徳碑を見たいです。

http://www.minamiawaji.ed.jp/kitaama_es/kouku/kitaama.htm



2012年11月13日 追記)

みっけました!
なにをかって?
あいもかわらず暇人の私はネットサーフィンしていましたら、武岡豊太の頌徳碑の写真をのっけたブログを発見しました。
この武岡豊太って言う方は実業家としてだけでなく多くの本を出しているようですね。
Googleで「武岡豊太」で検索するといろんなところで出てきます。
今では余り有名ではないけど当時はかなりの有名人だったのかもしれませんね。
ところで「ネットサーフィン」って言う言葉は今も使われているんかな?

「天忠宿のコゲ亭主」さんブログの「淡路島の勤王の志士たち」と言う2012年9月19日の記事です。
最近に撮られて写真のようですね。

http://ameblo.jp/anounosato/entry-11358541744.html
メンテ
歴史街道 2012年4月号 ( No.12 )
日時: 2012/03/22 23:07
名前: 土狸 ID:yTqlcMAo

歴史街道4月号で樋口季一郎を特集しています。
http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/
メンテ
北海道 ( No.14 )
日時: 2012/05/18 18:47
名前: 管理人 ID:IwiBL60o

Googleで「賀集」で検索していると北海道で「賀集・・・」の会社が目立ちますね。
淡路島と北海道は、幕末の北海道移住からのつながりがあり、いろんなところで影響しあっているのかも?

「賀集美和 シンガーソングライター女社長の唄ブログ」を見ていますと、賀集美和さんの出身が北海道となっていました。
http://ameblo.jp/kashumiwa/

ひょっとして、淡路島とつながりがあるかもですね。
メンテ
淡路島に多い苗字(名字) ( No.15 )
日時: 2012/06/09 19:04
名前: 土狸 ID:KcWJVgbU

兵庫県に多い苗字(名字)
http://platinum22000.fc2web.com/hyogo.htm

淡路市

網城(あみしろ)
雨松(あめまつ)
井高(いだか)
潤井(うるい)
戎(えびす)
片浜(かたはま)
来田(きた)
国賀(こくが)
小央(こなかわ)
漣(さざなみ)
志智(しち)
地道(じみち)
社領(しゃりょう)
瀬(せ)
瀬合(せごう)
宗和(そうわ)
登日(とび)
中来田(なかきた)
凪(なぎ)
新阜(におか)
延安(のぶやす)
東根(ひがしね)
宝谷(ほうたに)
前羽(まえば)
松帆(まつほ)
漁(りょう)


洲本市

椚田(くぬぎだ)
毛笠(けがさ)
鯛(たい)
炬口(たけのくち)
長手(ながて)
菱池(ひしいけ)
向所(むかいじょ)


南あわじ市

雨堤(あまづつみ)
居内(いうち)
居神(いがみ)
納(おさめ)
垣(かき)
賀集(かしゅう)
来馬(くるま)
古東(ことう)
里深(さとふか)
下賀(しもが)
谷池(たにいけ)
谷間(たにま)
福栄(ふくえ)
的崎(まとざき)
岬(みさき)
保居(やすい)


これらが淡路島に多い姓のようです。
淡路島だけあって海に関連した姓が多いですね。
メンテ
余り聞いた事のない名前が多いです ( No.16 )
日時: 2012/06/10 01:50
名前: 管理人 ID:nnkUoskI

この中で、学生時代を通じてあったことがある名前は洲本の椚田さんだけですね。
元気にしてるだろうか?

後、南あわじでは谷間さん。
福良に多いですね。
大阪で仕事を通じてお世話になりました。

メンテ
椚田姓のルーツ ( No.17 )
日時: 2012/06/10 16:18
名前: 土狸 ID:EdcxnDMA

「武蔵野の面影」掲示板
http://hidebbs.net/bbs/omokage?n=28936328

>> 大昔私の先祖はこちら方面に住んでいたりして。などと、思ってしまいます。

あっ、そう、そう、国木田独歩の先祖は、八王子の出身だそうですよ。

猪野健二氏の論文「国木田独歩入門」(「国木田独歩集」(日本現代文学全集6、講談社)に収録されている)に、次のように書かれています。

「 ・・・・なお、最近の報告の報告によると、国木田はもと椚田(くぬぎだ)と書き、いまの八王子市内、椚田領の領主であった。縁戚の三浦義守が北条氏に滅ぼされてから船越定氏につき、定氏が建仁三年将軍頼家によって淡路三原郡賀集荘の新地頭に任じられた際、これに従って淡路に移り、その後船越が秀吉の四国征伐に従ったことから、椚田も秀吉直系の脇坂氏に仕えることになったという。(宮崎修二朗「文学」昭和35年4月より。)
名作「武蔵野」を念頭に浮かべるとき、この国木田家発祥の地が、武蔵野の一角であったというのもまさに奇縁というべきであろう。」


国木田独歩

船越景直

洲本の椚田姓の方々の先祖は鎌倉時代に関東からやってきた人たちみたいですね。
ですから関西では割と珍しい苗字なのかも知れません。
メンテ
椚田姓のルーツ ( No.18 )
日時: 2012/06/10 16:44
名前: 土狸 ID:EdcxnDMA

椚田町
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9A%E7%94%B0%E7%94%BA

ここからやってきたみたいですね。
メンテ
椚田姓のルーツ ( No.19 )
日時: 2012/06/10 16:55
名前: 土狸 ID:EdcxnDMA

大元のルーツは武蔵七党の横山党の一族みたいです。

武蔵七党

横山党

初沢城
メンテ
関東武士 ( No.20 )
日時: 2012/06/13 13:21
名前: 管理人 ID:NiZXfuFI

私の知っている椚田さんは関西人ぽく無かったですね。
親が学校の先生だと聞いた事があります。
関東武士の血を引いてるのかも!

西日本から東日本への移住だけでなく逆の形もあるんですね。
メンテ
椚田さん ( No.21 )
日時: 2012/06/13 19:11
名前: 土狸 ID:pX2.oSOM

三原高校の前の校長先生も椚田一文さんという方みたいですね。


それから賀集の歴史に関する資料がありました。
千葉哲司さんという方が書かれた論文のようです。

高野山宝幢院領淡路国賀集荘の伝領について
http://ci.nii.ac.jp/naid/40003484945
メンテ
あら ( No.22 )
日時: 2012/06/13 23:37
名前: 管理人 ID:NiZXfuFI

>高野山宝幢院領淡路国賀集荘の伝領について

貴重な情報ありがとうございます。


あと椚田さんについてですが、私の知っている椚田さんの親も校長先生とうわさで聞いた事があります。
そして、私は三高卒です。
あら!!
メンテ
賀集地域の歴史 ( No.23 )
日時: 2012/06/18 01:28
名前: 土狸 ID:fiL4LOno

賀集郷(古代)

平安期に見える郷名。
「和名抄」淡路国三原郡七郷の1つ。訓は「加之乎」。高山寺本は当郷を記載しない。
都と四国を結ぶ南海道は郷内を通過し、福良駅が設置されていた。
三原平野の西南部、江戸期の賀集中村・八幡村・立川瀬村・西山北村・西山中村・西山南村・福良浦・鍛冶屋村・福井村・筒井村・新田北村・新田中村・新田南村・生子(せいご)村・内ヶ原村・伊賀野村の地に比定されている(淡路常磐草)。


賀集荘(中世)

鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。
三原郡のうち。建久3年3月日付後白河院庁下文案に「淡路国福良・賀集荘〈高野宝塔三昧院領〉」とあり、勅事・院事・国役以下の課役を停止されている(大徳寺文書/鎌遺584)。
領家の高野山宝塔三昧院は後白河院の御願によって創建、のちに同院寵妃の高階栄子が願主となり、宝幢院と改号した。
建仁3年10月20日付紀伊国司庁宣には「宝幢院米 淡路国 賀志尾荘」と見える。
当荘からの年貢船は「賀集船」と称し、紀伊国衙の差課す所課を免除された(高野山文書/鎌遺1387・1393)。
貞応2年の淡路国大田文には高野宝幢院領として「賀集庄〈前地頭左近将監忠光国御家人、新地頭船越右衛門尉〉田百廿丁 畠」とある。
地頭は国御家人左近将監忠光であったが、承久の乱後は長田村・慶野荘の地頭を兼ねる関東御家人船越右衛門尉が新地頭となった。
この後、当荘から西山荘が分立、領家職は後白河院女宣陽門院の管領となり、六条殿長講堂に寄進された。
文和2年3月5日付三条公秀譲状には「一、長講堂領淡路国福良賀集西山三箇庄」(加賀前田家蔵文書/大日料6-17)、また応永14年3月日付宣陽門院御領目録にも「同国福良賀集庄 三条宰相中将家」とある(八代恒治氏所蔵文書/同前7-8)。
この間、預所職は三条公秀・実継・公豊・実豊・公雅と三条流藤原氏が相伝している。
荘内には高野山鎮守の丹生神社が鎮座したが、のちに賀集八幡宮が祀られた。
同宮別当寺は賀集寺で、のちに護国寺とよばれた。
暦応3年、淡路平定のため阿波より上陸した細川師氏は、賀集山城ヶ丸に陣を取り、賀集八幡宮に願をかけて、南朝方に大勝した(護国寺文書・三原郡史)。
この後も賀集八幡宮は代々淡路守護細川氏の崇敬を受けた。
文和2年10月には法性寺中将ら南党が「淡州賀集庄丹山」に陣を取ったため、細川春氏に率いられた船越氏ら北朝方がこれに対峙している(記録御用所本古文書/大日料6-18)。
室町期には荘内の土豪賀集氏が活動、嘉吉2年10月には賀集次郎左衛門康愛が見え、長禄2年8月には賀集美濃守公文、文明3年2月には賀集美濃守安親らが所領を賀集八幡宮に寄進している(味地草・護国寺文書)。
戦国期には賀集木工助盛政が三好氏の下で活躍したが、天正11年に淡路を離れた(三原郡史)。
現在、南淡町賀集の小字城の腰に同氏の居館跡がある(城館荘園遺跡)。
文明2年8月11日付番役差定によれば護国寺御番所の番役が野田村・高萩村・西山村・法花寺村・牛内村・鍛冶屋村・中村・忌部村・立川瀬村に割り当てられているが、これらは当荘内に成立した村々とみられる(護国寺文書)。
現在の南淡町賀集および同町の賀集を冠称する地域に比定される。


賀集村(近代)

明治10〜22年の村名。
三原郡のうち。賀集中村・鍛冶屋村が合併して成立。
明治19年賀集村外2村戸長役場設置。
同22年賀集村賀集賀集組・賀集鍛冶屋組となる。
なお、同24年の戸数280、人口は男643・女690。


賀集村(近代)

明治22年〜昭和30年の三原郡の自治体名。
賀集村・福井村・八幡村が合併して成立。
賀集賀集組・賀集鍛冶屋組・福井福井組・福井野田組・福井生子組・福井内ヶ原組・福井長原組・福井牛内組・八幡八幡組・八幡南組・八幡中組・八幡北村組・八幡立川瀬組の13大字を編成。
明治24年の戸数1,098、人口は男2,397・女2,566。
大正12年淡路鉄道賀集駅、昭和8年御陵東駅が開設された。
同30年南淡町の一部となり、13大字は同町賀集・賀集鍛治屋・賀集福井・賀集野田・賀集生子・賀集内ヶ原・賀集長原・賀集牛内・賀集八幡・賀集八幡南・賀集八幡中・賀集八幡北・賀集立川瀬となる。


淡路島の地名「賀集(かしゅう)」
http://www.yumekaiyu.com/blog/log/eid302.html

三原平野の西南部に位置し、淳仁天皇陵や護国寺のある南あわじ市賀集は、「和名抄」にでてくる「賀集郷」の地である。
1203(建仁3)年の「紀伊国司庁宣」には「賀志尾」と記されているが、その他のものは「賀集」と表記している。
「和名抄」には「加之乎(か・し・お)」と注があり、中世の「護国寺文書」には「かしお」、「かしう」とある。
また1586(天正14)年の「淡路国御蔵入目録」には「かしう」とあり、豊臣秀吉の蔵入り地となっている。
したがって「賀集」は、「かしお」、「かしう」、「かしゅう」と変化してきたのである。
この「かしお」の由来については諸説があるが、一般には「鹿塩」すなわち塩漬けにした鹿の肉からきているといわれている。
賀集地区には鹿子(かのこ)西谷、鹿子奥、鹿子北谷など字名のほか鹿の子池などがある。
「日本国語大辞典」によると、鹿子の語源は「鹿(か)の毛(け)」であり、鹿(しか)の子、転じて鹿そのものをさすという。
「かしお」の「か」は鹿であり、「しお」は塩だというのである。
このほか橿(かし)の木の生えている所という意味の「橿生」、「橿尾」説、神が集まるという「神集」説、「橿丘」で土のよい所からきたなどの説もあるが、いずれとも決しがたい。
賀集八幡の集落に「印部」という小字があるのが注目される。
1470(文明2)年の「護国寺結番定書」という文書に、「忌部村」が出てくるし、「淡路常磐草」には「忌部は八幡村の旧名なるべし」とある。
「印部」は「忌部」が変化したものである。
忌部とは古代に朝廷の祭祀(さい・し)をつかさどった集団で、身を清めて神事に携わったことからきた名称だという。
諸国の忌部は朝廷の祭祀に必要な品物を整え、中央の忌部に送ったといわれるので、この印部の地に忌部の集団が存在した可能性がある。


賀集の春まつり
http://mitikusa007.blog107.fc2.com/blog-entry-92.html

賀集郷の地は、「かしゅう」呼んでおり『和名抄』には、「加之乎」(かしお)と訓註がついている。
又『護国寺文書』には、「かしお」「かしう」と記されている。
「賀集」は「鹿集」であると、一般に言われています。
此の語源として、鹿塩即ち塩漬けした鹿の肉から来ている。
鹿を意味する。
賀集には、「鹿」という字名の地が多く存在する。
その他に、「橿生」で、橿の木がある地、又「橿尾」、或いは、神が集まる地「神集」と呼ばれていました。
護国寺は山号を賀集山と称し、賀集寺とも呼ばれていた。
神仏分離の際、明治以降は、賀集荘の鎮守であった賀集八幡宮の別当寺であった。
護国寺には、鎌倉時代前期から近代に至る約3000点の古文書が伝来し、内約60点は中世文書が含まれている。
中世文書には、賀集八幡宮の祭祀・祭礼・所領・信仰に関する物が中心となっている。
石清水八幡宮の荘園であったと言うことは確認出来ていない。 ※釈文『兵庫県史』


淡路人形浄瑠璃の起源
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/1719/awajinin1.htm

起源についてはいろいろの説があるが、『淡路草』(原著文政八年・千八百二十五−藤井容信・彰民 名著出版復刻昭和五十年)所載の淡路人形始祖「上村源之丞所蔵之書」によれば、西宮戎社に仕えていた夷かき(愧儡師)百太夫が木偶を携えて全国の神々を鎮めて巡る途中、三条村(三原町市三条)に留まり、引田(後に上村)家に入婿し、木偶操りの技を伝えたのに始まるという。
三条の八幡神社には脇宮として百太夫を祀った社があり、同神社前には淡路人形発祥地の碑も建てられている。

このように西宮から夷神信仰とともに木偶操りが三条村を中心に入ってきたことについては、そこにそれを受け入れる素地があったのであろうと考えられている(『三原郡史』編集委員会代表菊川兼男 郡町村会事務所昭和五十四年)。
三条のあたりは古代・中世にかけて淡路国の政治文化の中心地で国衙が置かれ、近隣に総社があり、多くの伶人(楽人)を抱えていた。
南北朝時代に入り国衙の廃退とともに総社も衰退し、その後淡路に入国した守護細川氏が崇敬した賀集八幡宮(南淡町)が栄えた。
「護国寺文書」によると、賀集八幡宮は、多数の伶人を抱えて淡路の諸寺諸山のの供養に奉仕した。
そのために一時は楽料田が三十町歩もあった。
今総社のあたり三原町市三条に「ガク」、市新に「ガクデン」という小字名があるが(護国寺文書に国司が留守所に楽料田の開発を命じた鎌倉初期の元久二年・千二百五の庁宣がある)、それは賀集八幡宮の楽人たちが神社の周辺でなく総社のあたりに住んでいたのだろう。
この賀集八幡宮に隷属した楽人たちは、南北朝以前は国衙と総社に隷属していたと思われる。
それが室町末の細川氏の衰退とともに舞楽奉仕も行われなくなったので、楽人たちが西宮から夷廻しや上方から三番叟を受け入れた。
すなわち淡路人形操りが浄瑠璃芝居となる以前、中世前期には国衙と総社に隷属し、後期には賀集八幡宮に隷属した神事舞いを職業とした人たちがいて、上方から三番叟、西宮から戎舞をうけいれたその伶人たちが、細川氏没落後は生活の手段を人形操りに求めたのでなかろうか。
メンテ
淡路島と北海道 ( No.26 )
日時: 2012/10/03 23:45
名前: 管理人 ID:VFaUNSeU

実家の母と話をしたのだけれども、実家のある賀集周辺地域からも200人ぐらい北海道に移住したらしいと言う話を聞きました。
洲本の稲田騒動と関係なく北海道へ移住した人も多かったようですね。
メールで教えていただいた方によれば、屯田兵として淡路島から北海道に渡った方もいると聞きます。

母によると、今年になって近くに住む遠い親戚の方が北海道へ親戚の方を訪ねて旅行したと言います。
北海道へ移住した親戚は名前しかわからず探すのに苦労したようです。
個人情報保護法ができたために役場などは簡単に教えてくれなかったのだと思います。
私にとって遠い親戚の親戚が北海道に移住していたと言うのを聞き嬉しく思いました。
過去から現在に渡って淡路島と北海道が繋がっているのは夢がありますね。


メンテ

Page: 1 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成
題名 タイトルは次の画面で設定してください
名前
E-Mail 入力時 メールを送信する からメールを受け取れます
URL
パスワード (記事メンテ時に使用)
投稿キー (投稿時 投稿キー を入力してください)
コメント

   クッキー保存