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南淡町歴史民俗資料館

かつて淡路島を鉄道が走っていました。
その淡路鉄道の創業者の一人で初代社長である賀集新九郎の慰霊碑賀集八幡神社にあると聞き境内をうろついていました。
慰霊碑はなかなか見つからず、境内を掃除していたおじさんに聞くことにしました。

そして、とても立派な賀集新九郎の慰霊碑が見つけることができました。
賀集八幡神社の鳥居から拝殿へ続く長~い参道の左側に「南淡町歴史民俗資料館」があり、この敷地内に賀集新九郎の慰霊碑がありました。
この「南淡町歴史民俗資料館」の敷地内の奥、賀集八幡神社の拝殿側に2つの立派な慰霊碑がありました。
左側に立っているのが「志士増井文太翁之碑」、右側に立っているのが「賀集新九郎氏表功碑」です。
この二つの慰霊碑はとても立派なものです。

「賀集新九郎氏表功碑」については、次回に記事にし、今回は「南淡町歴史民俗資料館」と「志士増井文太翁之碑」について記事にしたいと思います。

「南淡町歴史民俗資料館」についてです。
入口にあたる門には鍵がかけられていました。
ですから、この門からは「南淡町歴史民俗資料館」の敷地に入ることはできません。
賀集八幡神社の拝殿側にあたる奥からしか「南淡町歴史民俗資料館」の敷地に入ることはできません。
このように、「南淡町歴史民俗資料館」は既に閉鎖されているものと思われます。

Googleでキーワード「南淡町歴史民俗資料館」で検索しても、それらしいホームページは見つかりません。
唯一「南あわじ市歴史民俗資料館条例」と言うのが出てきます。
この「南あわじ市歴史民俗資料館条例」にでてくる資料館が「南淡町歴史民俗資料館」のことだと思われます。
しかし、結局は「南淡町歴史民俗資料館」は名前も変えられず、建物も今まで忘れられた存在になっているようです。
町村合併で南あわじ市はできましたが、一部、昔のままのものが残されているのでしょう。

「南淡町歴史民俗資料館」の壁に資料館の説明が書かれたものが掛かっていました。
とても良いことが書かれていました。
この先、この「南淡町歴史民俗資料館」はどうなるか分かりません。
南あわじ市のホームページの「南あわじ市歴史民俗資料館条例」のページには、館長、管理人を置くと書かれています。
しかし、現状はどうみても管理されているようには見えません。
ですから、この淡路島情報館の当記事にて、「南淡町歴史民俗資料館」の壁に掛かっていた資料館の説明を全文掲載いたします。

私達の祖先 海人族が海の幸・山の幸を求めてこの土地に住み着いて以来、山野を拓き、海に挑んで生業の道を開いてきた。
親から子へ、子から孫へと伝えつつ幾星霜を積み重ねて、誇り高い郷土の文化や産業を残してくれた。
然しながら時代の流れが急変し、これら古い貴重な文化遺産が失われようとしている。私達はここに歴史民俗資料館を建設し、それらの資料を集めて保存し、瀬戸内漁業の発展の跡を辿り、また、農具、生活用具、古文書等を収集して祖先の素朴なくらしを偲ぼうとするものである。
  昭和四十八年五月二十六日
    南淡町教育委員会

「志士増井文太翁之碑」についてです。
「南淡町歴史民俗資料館」の敷地内にある「志士増井文太翁之碑」は、綺麗に掃除され立派なものでした。
ネットで「増井文太」を検索してみると、慰霊碑は荒れているように書かれているものがあります。
最近になって賀集八幡神社の拝殿が綺麗になったのと同時に、「志士増井文太翁之碑」も綺麗に修復されたのかもしれませんね。

増井文太は賀集出身で庄屋の息子として生まれ、勤皇志士の一人として活躍されたようです。
でも、増井文太についての詳細は良くわかりません。
詳細がわかりしだい、ここに書いていきたいと思います。

「志士増井文太翁之碑」に「陸軍大臣宇垣一成書」とあります。
wikipedia「宇垣一成」によれば、慶応4年6月21日(1868年8月9日)、岡山生まれの日本の陸軍軍人で政治家だそうです。朝鮮総督や外務大臣も務めています。増井文太と宇垣一成の関係が分かれば面白いかもしれませんね!

南淡町歴史民俗資料館 正門

南淡町歴史民俗資料館 正門

閉館中の南淡町歴史民俗資料館

閉館中の南淡町歴史民俗資料館

南淡町歴史民俗資料館 説明板

南淡町歴史民俗資料館 説明板

南淡町歴史民俗資料館 二つの慰霊碑

南淡町歴史民俗資料館 二つの慰霊碑

志士増井文太翁之碑

志士増井文太翁之碑


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