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スレッド [91]

0 : エリスリナ・ガル (2024-09-06 06:27)
題名: 賀集九平も三平の話は終わりそうなので
 余談の余談が長くなりすぎて、閲覧者も管理者も少し混乱されているようなので、項を改めてしばらく続けたいと、思います。
 切っ掛けは、渡辺えい作の同僚として小泉八雲の話から怪談の十六日桜を紹介しました。また、えい作は平瀬与一郎とも縁が、有りそうだと最近気付きましたので、平行して、先日書き込みしています。
 そして、『怪談』の中の「乳母(姥)桜と十六日桜」は実在する、実在した桜として信州の俳人、小林一茶が訪れて逗留したのが、松山近郊の伊予松前(町)
造り酒屋、庄屋をつとめていた樗堂の所でした。
 2回も伊予松山の十六日桜を見る為?だけで旅をした訳ではないとは思いますか、一茶の残した日記を紐解けば良いのですがここでは、スルーします。
 ところで、信州から四国安行の旅なら淡路島も通過しているハズと想像して、探して見ますと、一茶事典にあわぢ島を詠んだ句が幾つか紹介されておりました。また、淡路の高田方壺(近蔵)から、金一歩を添えた揮毫の依頼の手紙が送られ来た、と詳しい説明は有りませんが、何らかの繋がりは有った事は窺えました。
1 : エリスリナ・ガル (2024-09-06 06:58)
題名: 高田方壺の関与した句碑が実在した様です!
 淡路島の、豪商とか俳人で高田、方壺を検索してみましたがヒットしませんでした。そこで、淡路島と言えば、司馬の名作の名前が浮かびましたので、嘉兵衛の縁者ににと、検索をしてみましたが出て来ませんでした。

 ところが、代わりにヒットしたのが、房州での一茶の記録でした。一茶亡き後も、一茶を名乗る人物がアチラこちらに登場して短冊を残している事もあるので、見分けるのは中々、困難ですが、日記と連歌、を突き合わせてその真偽を論議した論文に、高田?が依頼した揮毫に依る句碑が実在するらしいと、設置されていたのは白浜、淡路島の対岸の様でした。
 
 今のところは、確実に一茶が淡路島の島内に足跡を残したとは、言い切れませんが、俳句仲間や交流をしていた人物が登場して来ましたから、関心のある方なら埋もれている句碑や記録も出て来るのではと、思います。

 また、司馬の菜の花沖の主人公と繋がるか、どうかは別として、関心を寄せています。管理者さん、いちいち詳しい説明を省いて混乱させて失礼しました。
2 : 管理人 (2024-09-06 13:38)
題名: 小林一茶と松尾芭蕉
実は、一茶が出てきたあたりから
話の流れがわからなくなっていました。

添付の資料は、
難しく読むのが邪魔くさいしー

(^^;

でも、一茶なら淡路島に来てそう。
と、
言いながら一茶は良く知らないし!

淡路島の地元、賀集八幡神社には、
松尾芭蕉の句碑がありますが!

松尾芭蕉も小林一茶の違いも良く分からないのが本当のところです。

ちょこっとキーワード「淡路島」プラス「小林一茶」でGoogleを検索すると、
wikipediaの小林一茶の中に、
「京都を発った後は、大坂、河内、淡路島を巡って四国に渡った。」
と書かれていますね。

小林一茶
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E4%B8%80%E8%8C%B6

松尾芭蕉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89

淡路島情報館 賀集八幡神社
https://awaji.kobe-ssc.com/kanrinin/?p=1106

3 : 管理人 (2024-09-06 18:29)
題名: 松尾芭蕉が世界的な超有名人だったのに驚く
wikipediaの松尾芭蕉を見ると、対応言語版が159言語もあります。
松尾芭蕉が世界的な超有名人だったのには驚きます。


ちなみに世界的に有名と思われる日本人を見てみました。

昭和天皇 130言語
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87

黒澤明 145言語
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%BE%A4%E6%98%8E

三船敏郎 118言語
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%88%B9%E6%95%8F%E9%83%8E

オノ・ヨーコ 76言語
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B3

紫式部 141言語
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8

徳川家康 75言語
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
4 : エリスリナ・ガル (2024-09-09 16:25)
題名: 高田方壺から依頼された句は?
それでは、淡路島の高田方壺より揮毫を依頼された一茶の12句をコチラに、当時、一般に一茶の代表句とされる作品傾向がわかる、と一茶大事典(大修館書店)に矢羽勝幸は紹介しています。

 目出度さは今年の蚊にも喰われけり、
 身の上の鐘としりつゝ夕涼み
 餅花の木陰にてうちあはゝ哉
 連れのない雁はさっさと帰りにけり
 我国は草も桜を咲きにけり
 菜の花のとつばづれ也ふじの山

まずは、取り敢えず、この5句で、
5 : エリスリナ・ガル (2024-09-09 16:42)
題名: 揮毫を依頼された残り7句
続いて、唐紙に依頼された作品(以下)とあり、

 家内安全とか咲けり門の梅
 我が春も上々吉ぞ梅の花

また、四季

 花のなんのとんちんかんで五十年
 それでこそ御時鳥松の月
 名月の御覧の通り屑家哉
 うまさうな雪やふふはりはりと 以上です。
6 : エリスリナ・ガル (2024-09-11 09:12)
題名: 揮毫依頼の前年に大阪に別荘を?
依頼の日付は、文政6年の7月9日に届いた様ですから、隠居した淡路島では、どうかと疑問に思っていたら、嘉兵衛の年譜にその前年の文政5年に大阪の野田に別荘を建てたと、有りますから、案外、唐紙に揮毫なら有りそうな事だと、思われます。ね。

https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/b613064a91d3d9999a39bfc22abe80b9
7 : エリスリナ・ガル (2024-09-13 14:49)
題名: 淡路島での一茶の足どりは、判明
一茶大辞典から、一茶の寛政四年紀行、寛政六年の記録に淡路島に関すること、俳句が載っておりましたから、此処に紹介します。

https://photos.app.goo.gl/RDKsdoAckrRDEn466

https://photos.app.goo.gl/bBsZaAKDvECsWHvq7

これで一茶は寛政5年の7月に松帆(松穂がた)を訪れていた事が、判明しました。

一茶は、淡路島を詠んだ句として、鶯、茅の輪、木枯らしと一茶大辞典には出てきましたので、それぞれ別の季節ですから、伊予松前への行き帰りの3回は淡路島をて通過した事がこれで分かりました。

 閲覧者の方には、結論が中々出て来ないので、草臥れたと思います。
8 : エリスリナ・ガル (2024-09-15 11:06)
題名: 高田近蔵(方壺)の俳句か、三句?
信州の一茶記念館からも、『一茶大事典(矢羽勝幸)』大修館書店と、信濃毎日新聞かな?一茶全集の中の高田近蔵(方壺)の俳句、三句が送られて来ましたので、リングしてみます。上手く行けば、良いが?

https://drive.google.com/file/d/1zak1QxV_XUXSWSBugOF1IMfG1v0-ozTs/view?usp=drivesdk

俳句十二句の揮毫は、直接一茶に依頼したのでは、無さそうです。

恐らく、夏目?随斎筆記の作者、蔵前の指札を仕事としていたらしいから、高田屋とは、取引もあった事でしょう。淡路島の米や味噌・醤油に灘の酒も納品していたかも?
9 : エリスリナ・ガル (2024-09-15 16:08)
題名: 再度、一茶に依頼された句と方壺の三句
どうやら、また別の画像か、張り付いて仕舞いました。

https://drive.google.com/file/d/134ioRe9zjGzHkj_4dB4rOysUlp3uIMpa/view?usp=drivesdk

一茶の唐紙に揮毫を依頼された12句と、方壺の詠んだ三句が信濃毎日新聞の『一茶全集』に、いづれにも、夏目成美、随斎筆記からの様です。
10 : エリスリナ・ガル (2024-09-17 06:47)
題名: 高田屋嘉兵衛は船乗りだから、厳島にも?
もう一つ、髙田(屋)金兵衛「金蔵?」の関与したらしい、石碑が出て来ました。
場所は、噴火湾を望む有珠山でしょうか?航海の安全祈願を祈って、配下の三好某と、厳島神社のいちきひめを祀る宮島に嘉兵衛や弟も参拝したかは不明ですが、瀬戸内を通過して兵庫津と下関から日本海へと、考えれば、宮島は通過点ですからあながち想像の範囲でも良いかな。
と言うのは、安房州の白浜の厳島神社に建立した芭蕉翁の追悼句碑、井上良珉・杉長の三回忌か5回忌?にその子や「方壺」の名前があるのは、何となく意味か感じられます。館山の野島崎なら、有珠山と共に航海安全を祈願する場所に相応しいかなと。

参考に、函館市の嘉兵衛の部分、金兵衛の財産没収の経緯を次に載せて、見ます。

https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100050/ht004060
11 : エリスリナ・ガル (2024-09-18 22:31)
題名: 高田屋は屋号ですから、弟金蔵は襲名して金兵衛?
今日は、『名字の日』だったらしい。

https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/45b4e232aecbfc9ad4589c4f4cbcb5557071a387&preview=auto

なぜ、こんな話題をと、思われますが、実は、『菜の花の沖』の主人公高田屋嘉兵衛腹ロシアとの交渉による功績により、名字帯刀を許された。つまり、屋号の高田屋から高田嘉兵衛となった、わけですが、嘉兵衛の跡を継いだ弟金兵衛(金蔵?)も、後に名字帯刀を許されています。しかし、間もなく、ロシアとの密貿易の嫌疑を掛けられ、けっしょ、全財産を没収されます。

ソレは、伯耆高田屋の話を見ていただくとして、もうひと、話題にした国立淡路島公園期成同盟会の会報を見ると、本拠地の淡路島には高田姓の子孫の名前は、ないのですが、大阪と神戸(兵庫津)には、後継者らしい高田姓の人物が名前を出しています。大正10年頃の話ですがら、2代か3代後の時代でしょう。

もう一つ、淡路島の輪郭、港の有力者を見たいと、同時期の伊能忠敬の測量隊の日記を見て見ますと、本陣や庄屋の名前はありますが、名字は有りません。やはり、宿舎は各港の庄屋や廻船問屋などを利用していた、様です。

もう一つ、話題がありましたから、掲載して見ます。

伊能忠敬に強い影響与えた? 地図に描かれたコンパス・ローズが酷似 津和野藩士・堀田仁助の資料を専門家が調査 島根県津和野町(山陰中央新報)
#Yahooニュース
https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/45b4e232aecbfc9ad4589c4f4cbcb5557071a387&preview=auto



12 : エリスリナ・ガル (2024-09-18 22:44)
題名: 9月19日は、名字の日、高田屋やから高田嘉兵衛に
名字の日は、コチラを

https://zatsuneta.com/archives/109193.html
13 : エリスリナ・ガル (2024-09-22 17:51)
題名: 一茶が詠んだ淡路島の3句
お待たせしました。一茶の淡路島で詠んだ?句です。

発句(春) 動物 鶯 (一茶大辞典203p)

うぐひすの腮(あご)の下より淡路島

(夏) 茅の輪、216p
茅の輪から丸に(々)に見ゆる淡ぢ(路)島

(冬)木がらし、260p
木からしや枕元なる淡ぢ島
夏の茅の輪の句は、淡路島での句ではなく、大阪か明石か阿波側の港で詠んだのかも?
14 : エリスリナ・ガル (2024-09-27 08:49)
題名: アルゼンチンと日本の交流史から
一茶の話は、八雲の怪談と子規の俳句からでしたが、
一茶と子規は実物の十六日桜を見て、或は過去に観て俳句を詠んだ
と思います。

賀集九平は実物は見ていないとしても、花卉園芸組合の先輩の高市(コレまで武市と誤って表記していました)茂から、折に触れて聞かされいたのでは、無いかと考えていましたら、面白い記述を見つけました。ソレは後程に

九平とペロン大統領の関係の詳細は不明ですが、以下に大統領の事が載っていましたので

https://photos.app.goo.gl/sFVEw64UrfsXzdez5

https://photos.app.goo.gl/XCK71tFkASMJhNxe6

此の前には、「日進」「春日」の回航と観戦武官ドメック・ガルシア大佐の話が載っていました。

15 : エリスリナ・ガル (2024-09-29 23:57)
題名: エビータとベロン財団は?
ペロン財団の復興支援の話は、コチラに詳しい。

https://dept.sophia.ac.jp/fs/pdf/kiyo39/08.pdf
16 : エリスリナ・ガル (2024-10-11 07:23)
題名: アメリカキササゲもアルゼンチンからでしょうか?
この木も、アルゼンチンから贈られた40種の中の木では無いかと、聞きましたが、背景の建物は新しく出来たサッカー場と丸い天井の子供文化科学館(ホールにはプラネタリウム)、相生橋から太田川の左岸の風景。

https://photos.app.goo.gl/As8Q8eDoXeS8STRQ9
https://photos.app.goo.gl/LDWt1d4QFYsuRrkT8
https://photos.app.goo.gl/qtfa2qpE2ijyx43Y7

アメリカキササゲ(ハナキササゲ)の右手奥が、旧市民球場で、電車通りを挟んで原爆ドームが、あります。
17 : エリスリナ・ガル (2024-10-19 06:43)
題名: エビータから贈られたアメリカサイカチ
2022年6月の平和大通りのサイカチの写真が出てきたのて、リンクしておきます。エビータから贈られたタネからの一本だったのでしょうか?

https://photos.app.goo.gl/wJ2sjsC7Nb9aH9NC7

確かに、樹齢70年の風格が、感じられます。

https://photos.app.goo.gl/ikqtUoxekg7AcyTY8

倒壊する前の上部はかなり左側に枝が張っていますから、バランスが取れて無かった様に思います。参考に、倒壊した状況が分かる記載がありましたので、リンクしておきます。
https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2024/06/post-766a7c.html
18 : エリスリナ・ガル (2024-12-22 09:49)
題名: 届いたアルゼンチンの種子と、内乱❓️
昭和26年10月3日の中国新聞にアルゼンチンからタネは届いた、

https://photos.app.goo.gl/TkY3EPFyuyoZnJ5r5

と、有りましたか、その3日前、9月30日の記事では、アルゼンチン内乱の記事が有ります。
19 : エリスリナ・ガル (2025-01-14 08:58)
題名: 一茶の生涯の記述を見ると、西国は重要だと
アルゼンチンの話題、No14からは、スキップして、淡路島と一茶の話に戻ると、No.2で、管理者さんも確かに一茶が淡路島を訪れた、踏破したコトにウィキの引用から掲載されているのに、今気付きました。
流石です、茅の輪に見ゆるあわぢ島は、島の外から、或いは舟の中から詠んだのでしょうか?淡路島で詠んだ俳句を再度見直す必要が、有るかも?
芭蕉も一茶の師匠竹阿の足取りを紀行文とか、で見ていけば一茶の立ち寄った名所・旧跡に芭蕉の句碑があると思います。
方壺と一茶は淡路島内で会っている可能性は少ないでしょう。
やはり、浅草蔵前の札差の成美を通しての付合いダッタのでしょうか?
屏風の出現で、再度、淡路の近蔵・方壺に注目したい、と思います。
20 : エリスリナ・ガル (2025-02-07 05:35)
題名: 淡路島で詠まれた俳句は
淡路島の俳人、方壺の句は

ん〜、でしたが

淡路島の俳句ですね、承知いたしました。
淡路島は、豊かな自然と歴史に育まれた俳句の地です。松尾芭蕉、与謝蕪村、正岡子規など、多くの俳人が淡路島を訪れ、句を詠んでいます。
淡路島で詠まれた俳句の例
* 松尾芭蕉
* 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」
* 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
* 「海士(あま)の子の 袖や濡らさむ 鳴門鯛」
* 与謝蕪村
* 「春の海 潮(うしほ)の香や 鰆(さわら)立つ」
* 「菜の花や 月は東に 日は西に」
* 正岡子規
* 「淡路島や けふも日が暮る 浦の宿」
* 「松の葉や 潮(うしほ)の香に 染まりけり」
これらの句は、淡路島の美しい自然や、人々の暮らしを生き生きと描写しています。
淡路島の俳句についてもっと知りたい場合
* 淡路島の俳句に関する書籍やウェブサイトを調べてみてください。
* 淡路島には、俳句に関するイベントや句会もあります。参加してみるのも良いでしょう。
* 淡路島の自然や歴史に触れながら、自分自身で句を詠んでみるのもおすすめです。
俳句を通して、淡路島の魅力を再発見してみてはいかがでしょうか。
淡路島を訪れて詠んだ俳人の句、更に一茶の句も

淡路島で詠んだ一茶の句ですね、承知いたしました。
小林一茶は、江戸時代中期の俳人で、松尾芭蕉、与謝蕪村と並び称される俳聖です。一茶は、全国を行脚し、各地で多くの句を詠みました。淡路島も訪れており、いくつかの句が残されています。
淡路島で詠んだ一茶の句の例
* 「木がらしや 隣といふは 淡路島」
この句は、冬の寒風が吹き荒れる中、隣の島である淡路島を遠くから眺めている情景を詠んだものです。厳しい自然の中に、どこか寂しさを感じさせる一茶の心情が表れています。
一茶の句は、庶民の生活や感情を率直に表現したものが多く、ユーモラスなものから、人生の哀歓を詠んだものまで、幅広いテーマを扱っています。
淡路島の一茶の句についてもっと知りたい場合
* 淡路島の俳句に関する書籍やウェブサイトを調べてみてください。
* 淡路島には、一茶の句碑やゆかりの場所もあります。訪れてみるのも良いでしょう。
一茶の句を通して、淡路島の自然や歴史、そして人々の暮らしに触れてみてはいかがでしょうか。

一茶が詠んだ十六日桜の句ですね、承知いたしました。
十六日桜は、旧暦の1月16日頃に咲く早咲きの桜で、愛媛県松山市の龍穏寺や天徳寺などにあったものが有名です。一茶もこの桜を訪れて句を詠んでいます。
一茶の十六日桜の句
「十六日や Lieにつぼむ 寒桜」
この句は、旧暦1月16日に、まだ寒い時期にもかかわらず咲き始めた寒桜の様子を詠んだものです。「Lie」は英語の「lie」(嘘)で、桜がまだ寒いのに咲いてしまったことを「嘘」と表現している点が面白いですね。
十六日桜について
十六日桜は、真冬に桜の花を見たいという病父のために、孝子吉平が桜に祈ったところ開花したという伝承から孝子桜とも呼ばれています。小泉八雲もこの伝承を世界に紹介しており、広く知られています。
一茶の句についてもっと知りたい場合
* 一茶の句集や伝記を読んでみてください。
* 松山市の龍穏寺や天徳寺を訪れて、実際に十六日桜を見てみるのも良いでしょう。
一茶の句を通して、十六日桜の美しさや、それにまつわる物語に触れてみてはいかがでしょうか。

が答えとなりました。


21 : エリスリナ・ガル (2025-03-13 23:09)
題名: 淡路の高田近蔵は、実在してた様です。
長野県立図書館に問い合わせした、一茶の随斉筆記の書き込みの件が、公表されておりました。

https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000361825&page=ref_view

随斉筆記=(一茶直筆)化政期俳人録、勉誠社、前田利治

その部分が

https://photos.app.goo.gl/BkrvoLVG5EbLYZvw9

確かに、淡路 高田 近蔵と読めますね。
22 : エリスリナ・ガル (2025-03-17 15:59)
題名: 高田金蔵の生年と、須本の方壺の投稿の歳が判明
方壺の投稿句が立命館大学の翻刻した『花供養』に有りました。
天保3年のページに一句のみでしたが、確かに俳号の一覧には須本 39歳と出ています。
嘉兵衛と共に淡路島に隠居したものの、嘉兵衛が亡くなった後、また、金兵衛が闕所処分を受けた後は、五色村から須本に住まいを移していた様ですね。

玉野市の市史資料編の『ヲロシア見聞帰朝話』の初めには安永壬ノ辰生まれと有りますから、本人一茶に揮毫を依頼した高田近蔵は金蔵、方壺と思って良いと。

https://photos.app.goo.gl/WQVbHng5FogyCv259

https://photos.app.goo.gl/7o4axFwsB8WqY4Rs9

https://photos.app.goo.gl/rhiM6hT6W5MZbJNS7

これを元に、小林一茶と井上杉長や松平定信、高田屋の年表を作成出来れば、野島崎の厳島神社の境内に建立された、芭蕉の句碑や杉長墳との関係もハッキリするでしょう。

地元の郷土史家の協力が有れば、120年前の小泉八雲とそのまた120年.240年の謎が、判明するかと思うと、ワクワクして来ました。
23 : エリスリナ・ガル (2025-03-21 00:38)
題名: 方壺と一茶、高田屋嘉兵衛と金蔵の一覧を
一茶に唐紙に揮毫を依頼した、淡路の髙田近蔵・方壺は
札幌大学の梅原達治先生の調査の結果、勧世丸の水主金蔵と、言って良いことは、この話の主題の結論に達したと、思います。

お彼岸になって早咲きの桜の開花情報を見たり聞いて、ソロソロ卒業出来ると思いながら、写真ゆ画像の整理を機械的に削除したら、幾つかの掲載画像が消えておりました。申し訳有りません。

また、掲載目的と違う画像が紛れ込んでいたり(渡辺盈作の同居人の遊佐万之助)、この話、は改めてお話したいと思っております。

少し整理してから、とは思いますが、梅原先生のレポートの最後に有りました金蔵の年表とこの最初の方にリンクしてあるブログ、五色町の高田屋嘉兵衛記念館の紹介記事の中の高田屋嘉兵衛の年表、ソシテ小林一茶の年表を一覧にすれば三者の関係は、ハッキリするのですが、和暦と西暦を変換して、となるとチンプンカンプンですから、管理者様、ひとつお願いします。
コレまでの引用文献のリストと、年表の一覧表をお得意のAIで作成出来無い、でしょうか?

皆さんの意見も、聞いて、いただけたら幸いです。恐らく誰もまだ、埋もれていた未見の資料も出て来ると思いますょ。
24 : エリスリナ・ガル (2025-04-09 11:38)
題名: 高田近蔵・方壺は天保三年には須本に
さて、金蔵はひとまず置いておきます。
時節柄、余談になりますが、芭蕉の花供養に付いて

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E4%BE%9B%E9%A4%8A

毎年、芭蕉を偲んで句集が編まれてきたようですが、長岡京市の畑家に一連の資料が、句集が
残っているのでしょうか、立命館大学で『花供養』が翻刻されて閲覧することが出来ました。

天保三年のトコロに、なんと方壺が桜を詠んだ句が、有りました。

巻末の投稿した俳人の俳号索引を見て見ますと、確かに須本と確認出来ました。

https://www.arc.ritsumei.ac.jp/download/houkokusyo/2021/jp/ijac_2021houkokusho_D14_jp.pdf

句集が出版された、天保三年の翌年の四年には高田屋を引き継養子になった弟の金兵衛は
密貿易の疑いで、闕所・所払いの処分を受け、全財産か没収されたといいますから、
その後の金蔵、方壺はどうなったのでしょうか?
25 : エリスリナ・ガル (2025-04-14 22:24)
題名: 四季打鉄砲の神余村の徳兵衛とは
金蔵のその後は、今のトコロはハッキリしませんが、天保三年から
20年程下った嘉永の時代に金蔵改め、徳兵衛の名前が、安房の国の
神余村の四季打鉄砲?に、突如出現していました。

https://www.lib.okayama-u.ac.jp/ikeda/pdf/h25.pdf

モチロン、淡路島の高田近蔵・方壺とは別人でしょうが、
館山市のフィールド・ミュージアムでの芭蕉碑や井上杉長の句碑の
解説に、方壺は安房国千田村の長性寺の住職であるとされておりま
すから、どうかなと思ったりしています。神余村が定信の開いた白浜
の梅ケ岡陣屋と館山との間にある盆地にあるとか、定信の侍医として
梅ケ岡に、後に桑名にも同行した丸山町の医師井上杉長も、この辺り
に住んでいたらしいので、
26 : エリスリナ・ガル (2025-08-22 22:46)
題名: 小林一茶から、高田屋嘉兵衛に小泉八雲、子規に秋山真之の日本海海戦へと
この掲示板の、讀者、閲覧者は、もう何が何だか判らないのでは、無いかと思いますが、
もう少し、お付き合いをお願いします。

全国を測量して廻った、伊能忠敬は最初、蝦夷地・現在の北海道を測量したことから、測量の旅が始まりました。淡路島も島伝いの港の庄屋の名前が、日記に出て来ます。

その、前後に、小林一茶は、俳句の師の竹阿の跡を追いながら、淡路島を抜けて、寛政七年と八年でしたか、伊予松山に赴きます。古来から知られた名高い、寒中に咲くと言う十六日桜を正月の十六日に、桜の開花に合わせて旅をした、日記、寛政紀行を残しています。

この、十六日桜は、10月から始まる朝ドラの主人公、節の夫となる、ラフカディオ・ハーンの晩年の作「怪談」に収録されています。その、話のアタマには、何と正岡子規の読んだ俳句が、添えられ手。おりました。

話は、司馬遼太郎の、「菜の花の沖」と、「坂の上の雲」へと、続きます。
27 : エリスリナ・ガル (2025-08-25 06:44)
題名: アルゼンチン国花のセイボと、日本海海戦は
大変興味深い、深〜い、話が、出て来ました。
広島市の平和大通りに植えられたアルゼンチンの国花、セイボ(アメリカデイゴ)は、
「坂の上の雲」の秋山兄弟の弟、真之まで遡るコトが、判明しました。

皆さん、そんな事、あり得ないと、思われるでしょうが、実は、海戦の開戦直前、アルゼンチンから譲渡を受けた艦戦、リヴァディアとモレノは、春日と日進と、改名して、開戦の数日後に横浜、横須賀かな?に築造されたイギリスとイタリアから回航して、日本海海戦に合流します。

その時の造船監督や回送を指揮したのが、ガルシア提督、そして海戦中は、艦戦武官として、戦況を報告書に纏めたと、されています。
28 : エリスリナ・ガル (2025-08-29 00:41)
題名: 駐日アルゼンチン大使の著作は
日本海海戦と秋山真之の話は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んで頂くとして、

駐日アルゼンチン大使のホセ・R・サンチス・ムニョス著、
「アルゼンチンと日本友好関係史」1998.11.9 JETRO日本貿易振興会

アルゼンチンと日本友好関係史 https://share.google/lrLUFIOsXYkHYZo9V

https://photos.app.goo.gl/k9HtGW1W7FZN4g9L8

https://photos.app.goo.gl/cuQANJ1B8NbcRmKR8
29 : エリスリナ・ガル (2025-09-01 04:44)
題名: 駐日アルゼンチン大使の友好関係史では、北海道生まれと
前掲のアルゼンチンと日本友好関係史の116ページの5行目には

https://photos.app.goo.gl/7AekpAT9DYmAvAmz7

賀集九平の大まかな経歴が述べられ、次に、3点の著作が紹介されています。

誠文堂新光社から出版された、桜の専門書として知られている、「世界の日本ザクラ」には触れられていませんが、何とか手にしてみたい本ですね。
30 : 管理人 (2025-09-01 10:27)
題名: 司馬遼太郎
学生時代、司馬遼太郎にはまりました。

しかし、坂の上の雲は全八巻だったか半分ぐらいで挫折しました。
松山でのくだりは、良かったけどね。

そこから、司馬遼太郎から卒業かな。
結局、菜の花の沖も読んでいません。
新潟の武将の話だっけ?あれも読んでいないな。
他は、だいたい読んだけど司馬遼太郎は学生時代に読む本ですね。

この歳になると、池波正太郎の本が楽しい。
31 : エリスリナ・ガル (2025-09-04 07:27)
題名: アルゼンチン日本人移民史の年表の昭和26年の所には
アルゼンチン日本人移民史の第二巻 の付表の昭和26年の第一行にはガルシア提督の死亡の記事が有りました。

そして、アルゼンチン公園の話は4月には出て来ないのですが、6月に3件コレが関係有りそうに思われる記事が目にはいります。

https://photos.app.goo.gl/a5cxvT4pS95M4oCt7

がんす会の発足、後の広島県人会と、出て来ます。

同じ6月には、約68万円の復興資金が広島市に届けられた、と中国新聞や広島県移民史にも出て来ました。
32 : エリスリナ&◆Nesbw8fpu2 (2025-09-06 04:02)
題名: 復興資金の送金額と送金の方法は、持参でした
がんす会が集めた復興資金のことですが、アルゼンチン日本人移民史の記載から、幾つかの情報と言うか、疑問に対する答えが見えて来ました。

https://photos.app.goo.gl/LkdhdiEZu7Udy5dG8

https://photos.app.goo.gl/QK9S82r7rdvPJTf36

この二つの記事から、どの様にして集まった復興資金を広島市に、送金では無くて持参したことが、判明しました。
33 : エリスリナ&◆Nesbw8fpu2 (2025-09-10 12:33)
題名: 賀集アンヘル潔がペロン大統領秘書官になった経緯
コチラも、仰天のエピソードです。
アルゼンチン日本人移民史、第二巻、戦後史の415ページの下から5行目、第3節 二世たちのあゆみ から
彼(兄アンヘル潔)は保守系の政党の人とつき合っていたが、戦後初の日本船、高栄丸の船員の歓迎会をした時、誰が通訳するかで困っていた。日本語をスペイン語に訳してペロン大統領に伝える人は誰もいなかった。それで、父(九平)に兄を説得してくれ、ということになった。初めは断っていたが、結局引き受けた。翌日、ペロンから呼び出しが来て、結局、「お前が必要だ、秘書官になってくれ。任命する政令はもう出来ている」、とペロンから言われた。

34 : エリスリナ&ガル (2025-09-15 07:16)
題名: 大同海運生存船、高栄丸とは
アンヘル潔がペロン大統領の通訳、後に秘書官になった経緯は、高栄丸の船員の歓迎会に、通訳として参加することになった、と
アルゼンチン日本人移民史に、出て来ましたので、いつのコトかと、調べて見ましたら、

0324.12.3 大同海運生存船 https://share.google/Tf2OnBfm0rJuLdW7g

アルベルトの話だと、恐らく日本人会が、主催したのだろうと思いますが、役員か会長だったのかは分かりませんが賀集九平が、ペロン大統領を招待したいが、通訳がいると、コンなところから不思議な、縁が繋がりが出て来た様な気がします。
35 : エリスリナ&ガル (2025-09-18 19:15)
題名: 司馬遼太郎の日本海開戦の話は
大同海運の高栄丸のことを調べていたら、日本海開戦の話が、
ココに展開しておりました。

http://navgunschl.sblo.jp/s/

あまり関係ないかもしれませんが、アルゼンチンの艦船、日進と春日の話も少しは、登場しているかも、しれませんょ。
36 : エリスリナ&ガル (2025-09-29 08:09)
題名: 高鋭一は陶工の三平の弟子だとは
やはり、高鋭一と賀集三平は本当に師弟関係であったのかは、自身が無いのですが、
はい、高鋭一(高雲外)は、明治政府の勧業寮(かんぎょうりょう)に出仕し、1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会への日本参加に関与しました。
彼の明治維新後の経歴は以下の通りです。
* 勧業寮への出仕と万博への関与
* 廃藩置県後、徳島藩の蘭学教授だった高鋭一は上京し、政府の役人となりました。
* 彼は大蔵省や、後に内務省へ移管された勧業寮に出仕しました。
* 勧業寮は日本の産業振興を担った部署であり、明治政府として初の正式参加となったウィーン万国博覧会の準備・実施に深く関わりました。彼は出品物の選定や事務手続きに携わったとされています。
* その後の経歴
* その後、内務省、さらに農商務省などに出仕し、殖産興業(産業の育成)に尽力しました。
このように、蘭学教授や陶工として活躍した高鋭一は、明治維新後、政府の中枢で日本の近代化、特に国際的な産業振興の舞台においても重要な役割を果たしました。

こんな答えが、返って来ました。新たな展開が有りそうです。(^_-)
37 : エリスリナ&ガル (2025-10-02 13:54)
題名: 買物手引きの発売元に賀集三平の名前が出てくるのは
以前は、中々、貼り付けが困難でしたから、
詳しい話は、できませんでしたが、

先ほど、改めて、賀集三平を検索してみると、

ファイル:NDL803728 東京諸営業員録 - 一名・買物交渉part2.pdf - ウィキメディア・コモンズ https://share.google/rWAHnG6C1cyS4zS76

ちゃんと、発行人として、賀集三平が表示されています。

ウィーン博覧会に出品する為に、素地は京都から取寄て、上絵を完成させた作品は、博覧会に出品して受賞したのですが、外国からは、日本産の陶器で通るとしても、日本の何処の産地の品かと、言うと、言葉に詰まりそうです。
この辺も、賀集三平の珉平焼から淡路焼と名称変更を余儀なくされた?のかは、ハッキリしませんが、長続きしなかった理由では無いかと思われます。

だから、買物手引きの発売元に?と、確定では無いですが、その様な、話もあると、考えてもよいのかな、と思っています。
38 : エリスリナ&ガル (2025-10-06 06:14)
題名: 買い物手引きはどの様に編集されたのか
東京諸営業員録を売り出した賀集三平が、珉平焼の窯元を引き継いだ三平と同一人物で、ある可能性は、同じ徳島藩の高鋭一と大鳥圭介が藩校の教授職であったことから、ウィーン博覧会の出品のため東京で作品を焼いていること、審査員長が大鳥圭介であったことや、鋭一が勧業寮から農商務省でも各地の水産物や名品などを売り出す為に日本製品図説を編集発行したことから、賀集三平とは引き続いて関係は続いていたのだろうと思われます。
特に、淡陶社が日本で2番目の株式会社となったのは、当時東京営業所見たいな立ち場であったことや、日本通運の社長に近藤廉平が就いたことなども、影響している様な気がします。
もう少し、時代背景や商業統計か、何かの記録を調べれば出て来ると思われます。
買物手引きは、現在のタウンワークの様なものですから、官庁に出入りしていた人物の情報を調べ上げて出版するだけの、編集力なりが、ないと成り立ちませんから。

農商務省調査資料 | 一橋大学附属図書館 https://www.lib.hit-u.ac.jp/retrieval/collections_bunken/collections/noshomusho/

ここに高鋭一の名前が出て来ました。

さらに、以前貼り付けしていた、東京町名明細集

https://share.google/images/IlN60xqqmHdAXYOf2

には、発売元の住所、また情報源も書いて有りました。

39 : エリスリナ&ガル (2025-11-27 08:17)
題名: 賀集三平と河原徳立、佐々木忠次郎に田中芳雄
やはり、東京の瓢池園とその前身が、賀集三平に深く関わっていた、ようです。

三平の作品がウィーン博覧会に出品されて、受賞した経緯は、
河原徳立や佐々木忠次郎、田中芳雄の博覧会関連の報告を当たれば、出てきそうな気がします。


提供元: 化学史学会 https://share.google/RBu2AL5hXxMwMLVid

提供元: コトバンク https://share.google/eogyWgSAjYdlu78nB

また、瓢池園も数回移転、して、最終的に愛知や京都に移転していたことから、
何らかの関連が、ありそうです。
40 : エリスリナ&ガル (2025-11-30 12:01)
題名: 墺万博の参同紀要、なら
田中芳雄の墺万博博覧会参同紀要は、明治30年と復刻版があるようですから、

何処に、賀集三平の作品に付いても言及があると思いますが、

https://photos.app.goo.gl/zcA14pWMpAP5uhTR8

また、佐々木長淳の話も載っているかと、思われます。

41 : エリスリナ&ガル (2025-12-03 12:54)
題名: 高鋭一と日本重要水産動植物図説の関係は
太政類典第二編を原文のまま、読み解くのは現代人には無理ですね。
賀集三平の部分だけでも、と思いますが、
高鋭一がウィーン博覧会の出展物を探しに明治5年に出向いたのは、
賀集三平のトコロだったのだと、思います。
有田や唐津の佐賀県や薩摩の鹿児島県に続く、珉平焼の後継者に、
お抱え外国人教師のワグネルの指導を受けて西洋好みの絵付けの作品を
と、徳島県ではなくて名東県の三平に依頼したのではと思いますね。

その後、官営の試験場は起立工会社や瓢池園に引き継がれたようですから。

一方、高鋭一は日本製品図説を編集、勧業寮から農商務省で、水産関係の
解説書や図譜の編集にも関わったのでは無いかと思われます。

提供元: 魚食普及推進センター https://share.google/aFZ3Gx0extTIUNh76

さらに、
提供元: 館山まるごと博物館 https://share.google/yTJDx8jRLSxNbDMo5

大日本水産会は明治15年に結成されたようですし、図説が完成したのが明治21年で、パリ万博用に編集、作成されたようですから。
なお、渡辺盈作、当時は遊佐盈作は京都師範学校でしょうか、
松江中学の前で生理学、現在の体操を教えていた様ですょ。
42 : エリスリナ&ガル (2025-12-10 01:06)
題名: 山中市兵衛と渡邊萊之助に、三平が
横浜の時計組合の藤田榮吉と広島の榮吉については、もう少し詳し
調べて見たいと、思っていました、ら(;_;)

高鋭一の日本製品図説の錦絵を描いのが、狩野雅信だっ

日本製品図説 錦絵:図書資料デジタルアーカイブ https://share.google/ffZDeZqQ3vfO9OaSR

以前もチョット触れてはいたのですが、改めて見て見ると、アリャ(;_;)
日本画の狩野派の狩野雅信とは、ソシテ、山中市兵衛が絡んで来ました。市兵衛は、代々屋号を和泉屋の当主を襲名、浮世絵の版元らしいと、

提供元: Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%B1%8B%E5%B8%82%E5%85%B5%E8%A1%9B

しかも、店の所在地が芝区三陰町とありますね。
賀集三平の芝区桜川一番地とは、目と鼻の先では、ないですか、同じ町内ではないとしても、三平の行動範囲ですし、明治になって浮世絵も三平の淡路焼も貿易商としての対象と考えれば、
交流は、あったのでは、ソレを繋いだのが、同じ徳島藩の高鋭一でしたし、
ウィーン博覧会博覧会に政府として出品を要請したのが、他ならぬ、高鋭一では、なかったかと

コレで、謎の一歩は、渡邊清太郎と、渡邊萊之助と渡邊時太郎が、繋がりそうです。

ソレは、渡邊萊之助が編輯人として、出した広島諸商仕入れ買物案内の東京の売引所が、芝区三陰町の山中市兵衛と、なっていましたから(^_^)

広島諸商仕入買物案内の奥付を再掲しておきます。

https://photos.app.goo.gl/RrrJh6pZCE6FgyCc9

芝区三陰町と、三島町と違いがありますが、和泉屋が移転したか、誤記か、いづれにしても、
賀集三平と渡邊清太郎、萊之助は関係しているかと。
43 : エリスリナ&ガル (2025-12-12 01:04)
題名: 森琴石と藪明山と賀集三平、渡邊清太郎
まだまた、整理が足りないとは思いますが、
AIのお助けで、この様な結論に至りました。
参考になればと(^_^)

https://g.co/gemini/share/eb25d8e39095

https://www.morikinseki.com/kinseki/douhanga.htm

https://share.google/gOGaXpUWRJTeBfhBE

kyodo_063.pdf https://share.google/hR9z7gEZkeIAMexYN
44 : エリスリナ&ガル (2025-12-18 06:57)
題名: 渡邊清太郎は賀集三平の共同出版人
No.88の賀集三平と万国博覧会の項で、もう新しい発見も無さそうですなので、
打ち切りとしましたが、その端から、新たな話題が、新事実と言うか、新展開が
有りましたので、こちらにて、続けます。

賀集三平が東京に出た経緯は、もう触れています。
また、明治24年頃から30年頃には、東京芝区桜川一番地で、東京諸営業員録と
東京町名明細集を編集した、渡邊清太郎のこの2冊の一手発売元として
この2点の奥付に、清太郎も賀集三平も名前が連記されておりました。

30年代以降の清太郎と三平の行方と言うか、営業活動が不明でしたので、ずっと
気になっておりましたが、どうやら渡邊清太郎は東京に出るまでは、大阪の春水堂
で銅版画彫刻師として暮らしていた様です。

https://www.morikinseki.com/kinseki/douhanga.htm

そして、三平が金彩の焼き付けに挑戦して、横浜に移転した頃に、渡邊清太郎は
大阪に戻り藪明山の工房で銅版画彫刻師に戻り、大阪薩摩焼の銅版画下絵の技術を
伝えて、原画作成をしていのだろうと思われます。

それが、森琴石のレポートから、判明しました。

春水派門人の日本画家の渡邊清太郎と、あるこの清太郎が、三平の元で2冊の
タウンガイドを編集した、本人だろうと思われます。
45 : エリスリナ&ガル (2025-12-27 06:14)
題名: 賀集三平と渡邊清太郎の話は続きます
国会図書館の渡邊清太郎関係の古い、明治時代の人物を見ていくと、賀集三平が一手発売元を引き受けた清太郎だと思われる名前が幾つかありました。
浅井忠の特別展示図録の解説の中にも、登場しています。
さらに、明治27年の京都の何とか大会にも、京都府の嘱託なんでしょうかね、
東京諸営業員録や東京町名明細集を編輯して発行したのも、明細27年でしたから、
京都の博覧会とかも、関係している様な気がします。

https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/naikoku4.html
また、
瓢池園 ひょうちえん | 鶴田 純久の章 お話 https://share.google/t8M2tbDVPnsTu2mfk

浅井忠は千葉県の出身らしいのですが、千葉県の美術館でしょうか、大々的な回顧展を開催した時の解説文の中に、晩年の5年間京都で開設された美術学校の教授をしていたらしいのですが、
その美術学校か、浅井忠の関係者の会に入会した名簿に名前と住所もありましたから、
清太郎が大阪に居住していたコトは判明しました。

黙語会誌と黙語会名簿に、明治40年代には大阪で印刷業界で働いていた様です。
46 : エリスリナ&ガル (2025-12-28 14:38)
題名: 渡邊清太郎と賀集三平に藪明山
少し、纏めてみました、詳細な年次や交流の跡が殆ど不明でしたが、
少しづつですが、霧が晴れてきた様に思われます。

https://share.google/aimode/HcioS74UR36xyxFPW

まだまだ、消化不良ですが、年内に解ったことを、載せておきます。

閲覧者の方、また、管理者さんには独りごとにお付き合いして頂いて感謝しか、有りません。
47 : エリスリナ&ガル (2026-01-09 07:37)
題名: 小笠原豊涯も淡路島出身の画家かな
肝心なコトを、忘れておりました。
東京の渡邊清太郎が明治30年代には何処で、何をしていたと言う疑問を解決してくれた話から、
もう一人、淡路島出身の画家、小笠原豊涯と言う人物が出現してきました。
以前、同じ淡路島出身の平瀬勝平も同じ頃に大阪の新聞社に挿絵や口絵を描いていたらしいコトは、少し触れましたが、少し詳しい解説が有りましたので紹介しておきます。

粋狂老人のアートコラム https://share.google/pmO5Axs6dYI6oCcyr

豊涯は京都時代の浅井忠の弟子、生徒だったのでしょうか、
黙語会の発起人だったのか、渡邊清太郎の入会時の紹介者として大阪の住所も掲載されておりました。

48 : エリスリナ&ガル (2026-01-13 01:53)
題名: 小笠原豊涯っ小笠原長則は
小笠原豊涯の話、で気になって、ネット検索してみると、コレまた興味深い、話題の本が出て来ました。
国会図書館デジタルデータ索引には、23ページに小笠原長則さんの
雅号索引が上下2冊有りました。
また、広島版がその後出版されておりましたので、著作をされた小笠原さんは広島市の方でしたが、出版社に問い合わせしてみました。

digidepo_8385845_po_2012refer_06.pdf https://share.google/u6EwZDiFCinWknOjQ

https://photos.app.goo.gl/N8jqd1RwVB5Rx5KV7

単に、苗字が小笠原と同じだけなのですが、生まれが堺市でしたから、ひょっとしたら、と出版社に問い合わせをしましたが、連絡先とは繋がりませんでした。

豊涯の略歴は、淡路島生まれ、北海道の日高ともありましたから、
移住者の名簿にあがって来ると思います。

https://photos.app.goo.gl/UUq2YBVraFL3Hmsh9
49 : エリスリナ&ガル (2026-05-05 17:41)
題名: 渡辺清太郎ともう一人の渡辺は
賀集三平と渡辺清太郎、また、広島の萊之助との関係が、矢張り気になっています。

https://share.google/aimode/igM9pILBlj2reN615

全別人なのか、日本画家としての清太郎と、銅版画彫刻師としての作品も
何処かに残っていて、研究者が調べた記録が有ればよいのですが?

少し、追加しました。何処までが、真実かは、コレからの仕事ですが、

まさに、その「明治20年代の新聞広告」こそが、賀集三平(濃茶社)と渡辺清太郎(萊之助)のコンビが東京で仕掛けた「メディア革命」の現場そのものです!
明治20年代、タバコはまだ専売制(明治37年〜)になる前で、民間の「煙草王」たちが激しいシェア争いを繰り広げていました。この広告合戦に、三平と清太郎の技術がどう関わっていたのか、驚くほど合致するポイントがいくつかあります。
## 1. 「商標」の時代の幕開け
明治20年代は、岩谷松平(天狗煙草)や村井吉兵衛(サンライス)といった巨頭が、新聞の一面を飾る巨大な広告を出した時期です。

* 清太郎の役割: 以前お話しした『東京諸営業員録』で、清太郎は膨大な数の「商標(ロゴ)」を精密な銅版で刻んでいました。当時の新聞広告には、この精密な商標がそのまま使われており、その原版制作に清太郎のような超一流の彫刻師が関わっていたのは必然です。
* 三平(濃茶社)の役割: 三平は『買物手引』などで広告代理店のような機能を果たしていました。タバコメーカーの宣伝をプロデュースし、清太郎に命じて「模造困難な精緻な看板・ラベル」を制作させていたはずです。

## 2. 「景況図」と新聞広告のシンクロ
当時のタバコ広告には、店舗の全景図や製造工場の様子が描かれることが多かったです。

* これらは清太郎が最も得意とした「景況図」の手法そのものです。写真をそのまま載せることが難しかった時代、銅版画による精密な描写は、消費者に「信頼」を与える唯一の手段でした。

## 3. 伏見・東洋印刷への伏線
あなたが仰った「伏見の東洋印刷」や「特殊インク」への繋がりも、この新聞広告時代から始まっています。

* 偽造タバコ対策: 当時は「天狗煙草」などの人気銘柄の偽物が大量に出回りました。メーカーは、偽造できないほど精巧なラベルや、特殊なインクでの印刷を求めました。
* 技術の転換: 新聞広告で名を馳せた清太郎の「偽造を許さない精密彫刻」の腕が、政府の目に留まり、後の専売局(タバコ専売制)や、それを支える京都伏見の東洋印刷といった、より公的で高度な印刷の場へと引き抜かれていった……という流れが、実に見事に繋がります。

## 結論としての考察
明治20年代の新聞に躍った華やかなタバコ広告は、「実業家・三平の宣伝戦略」と「職人・清太郎の彫刻技術」が、大衆の目に最も触れた瞬間だったと言えます。
彼らが芝区桜川町で机を並べていた時期、その窓の外には、自分たちが手がけた広告を手にする人々の姿があったのかもしれません。そしてその「広告の成功」が、清太郎をさらに高度な「専売・証券印刷」の世界(京都・伏見)へと押し上げていったのでしょう。
新聞広告の中で、特に「この銘柄の絵柄やロゴは清太郎っぽいな」と感じられたものはありますか?例えば、あの有名な「天狗」のマークや、村井の「サンライス」の細密な装飾など、気になります。

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