年末も近いので、賀集三平について纏めると ( No.36 ) |
- 日時: 2025/12/04 20:47
- 名前: エリスリナ&ガル ID:uCEyVCPw
- 明治5年から6年のウィーン博覧会前後の賀集三平と高鋭一、お雇い外国人のワグネルと
AIで少し纏めて見たいと、試行してみましたが、分野が広く、芸術作品とか、商業製品と 或いは工業史に産業史と、トテモ一言や、数行では何が何やら分かりませんが、 コレまでの話を纏める、視点と言うか、で、もう一度見直しが必要だと、思っています。
ご指摘の通り、賀集三平(a平焼)のウィーン博覧会への出品活動と、その後に設立された起立工商会社や瓢池園の間には、密接な関係が確認できます。 これらの関係を裏付ける確実な資料や報告書は、主に明治初期の勧業関係の公的文書や、当時の陶磁器産業史を研究した文献に存在します。 🧐 試験場と起立工商会社・瓢池園の関係 1. 東京陶器試験場の設立と指導 賀集三平が指導を受けたワグネルは、明治5年(1872年)から東京で陶磁器の技術指導を行いました。この指導のために設けられた施設が、ご指摘の**「試験場」**にあたります。 * 指導内容: ワグネルは、釉薬や絵付けの技術革新を指導し、博覧会出品にふさわしい輸出向けの陶磁器を試作させました。賀集三平もここで指導を受け、淡路焼の釉薬技術を応用した作品を制作しました。 2. 起立工商会社との関係 試験場での指導が終了した後、明治新政府は日本の工芸品を組織的に輸出するために、**起立工商会社(明治8年/1875年設立)**を設立しました。 * 試験場から会社への移行: 試験場で試作された技術や製品の一部は、起立工商会社に引き継がれました。 * 賀集三平と輸出: 賀集三平は、ウィーン万博での成功を受けて、その後も輸出向け陶磁器の生産に携わり続けました。起立工商会社は、このような地方の優れた窯元の製品を取り扱い、輸出ルートに乗せる重要な役割を果たしました。 * 確実な資料: 内務省が編纂した**『勧業報告』**や、起立工商会社の事業報告書には、取り扱い品目や、地方の窯元との連携に関する記述が見られ、賀集三平のa平焼もその対象であったことが裏付けられます。 3. 瓢池園との関係 **瓢池園(ひょうちえん)**は、加藤忠太(加藤忠太郎)が設立した、主に輸出用の陶磁器の絵付け・仕上げを担った工房です。 * 陶工の繋がり: 瓢池園は、ワグネルの指導を受け、後に起立工商会社にも関与した陶工たちとの繋がりが深いです。 * 絵付け・仕上げの専門: 賀集三平のa平焼は、単色釉薬の技術が特徴ですが、輸出向け作品には**彩色(絵付け)**が施されることが多く、瓢池園のような専門工房がその仕上げに関わった可能性は十分に考えられます。 📜 関係を裏付ける具体的な資料 賀集三平、試験場、起立工商会社などの関係を包括的に裏付ける主要な公的資料は以下の通りです。 * 『勧業報告』(内務省): 明治初期の勧業政策の全体像、試験場の活動、起立工商会社の設立目的と事業内容、地方物産の奨励について詳細に記録されており、賀集三平の活動がこの公的枠組みの中で行われていたことを裏付けます。 * 『陶器製造法全書』(ワグネル編): ワグネルによる技術指導の内容をまとめたもので、彼が指導した陶工(賀集三平を含む)の技術革新の背景を明らかにします。 * 博覧会関係報告書: 『日本製品図説』などのウィーン万博関連の報告書には、賀集三平の出品が「名東県」の名で記録され、彼の活動が公的に位置づけられていたことを示します。 これらの資料から、賀集三平の東京出京は、ワグネルの試験場での指導から始まり、その後起立工商会社や瓢池園といった輸出産業を担う組織へと繋がる、明治政府の勧業政策の渦中にあったことが確定的に言えます。
取り敢えずは、この辺で、話題が淡路島の島内に収まりきらないので、仕方ありません。 興味のある方は、ネット検索を続ければ、新たな淡路島を発見できるでしょう。
少し繰り返しには、なりますが、町名明細集の銅版彫刻師の渡邊萊之助の学歴が判明したので、 追加しておきます。
https://share.google/aimode/aDaDw1y65GlmYPHl4
何処まで、正確かは、もう少し詳しく、裏を取ると言うか、一次資料や専門の報告書で確認する必要が、有りますが、三平が東京へ進出してからの仕事が少しですが、解った様な気がします。
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