掲示板

スレッド一覧 > 記事閲覧
[10] 神戸元町商店街の本屋さん
日時: 2012/01/20 18:18
名前: 管理人 ID:B2DkbTZQ

神戸の繁華街と言えば、三宮と元町でしょうか?

元町には、大丸に南京街、そして元町商店街などがあります。
少し歩けばハーバーランドがあり、ハーバーランドにはポートタワーやモザイクなどの観光スポットもあります。

そんな元町にある買い物スポットと言えば元町商店街でしょう。
私も元町に行けば、ほとんどといって良いほど行きます。
そんな元町商店街にあるのが海文堂書店です。

その海文堂書店の前身の名前が賀集書店らしいのです。
掲示板の前スレで土狸さんに教えていただきました。
賀集書店の開業者が淡路島出身の賀集喜一郎と言い、有名な賀集一族なのだとか?

淡路島出身の有名人を調べたりしていると、新しい発見が次々とでてくるのに驚きです。
メンテ

Page: 1 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成
スポンサードリンク

平瀬與一郎と平瀬信太郎 ( No.1 )
日時: 2012/01/20 18:46
名前: 土狸 ID:cOUHB846

平瀬與一郎

1881年(明治14年)に同じ淡路国の名族賀集家出身の賀集やすと結婚。


この平瀬與一郎と賀集やすとの間に生まれたのが平瀬信太郎だと思います。

平瀬信太郎
メンテ
小学校「の頃 ( No.2 )
日時: 2012/01/20 19:21
名前: 管理人 ID:B2DkbTZQ

土狸さん

貴重な情報、ありがとうございます。

今の賀集公民館があった賀集中学校のあたりから、
福井に向かって川沿いに大きな敷地に大きな建物跡
のような廃墟がありました。

小学校の頃の不思議な思い出です。
ひょっとすると有名な賀集一族の住まい跡
なのかもしれません。

100年ぐらい前の地図があれば解決するんですが!
メンテ
昔の写真 ( No.3 )
日時: 2012/01/21 00:45
名前: 管理人 ID:sxYLK9wo

南淡路市役所のホームページで、写真家の野水正明さんが昭和27年から昭和50年代に撮られた写真を公開しているようです。

私も保育園以前に一度だけ乗ったことがある淡路鉄道の写真なんかもありました。

懐かしくてせつないです。

https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/soshiki/jyouhou/shashinkan.html
メンテ
馬車 ( No.4 )
日時: 2018/09/26 14:57
名前: 管理人 ID:ZS9SM0AI

小さい頃、阿万に少しいた事があります。
瓦屋さんがたくさんあり、瓦の土も掘り出していました。
かすかですが、馬がそれらを運んでいた記憶もあります。

南あわじ市のホームページでは、その頃の写真も紹介
しています。
写真は阿万ではなく津井の写真だそうです。

もっともっと、昔の淡路島の写真が見たいですね。


https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/soshiki/jyouhou/syasinkansigoto5.html
メンテ
賀集家と欅田家 ( No.5 )
日時: 2012/01/21 08:43
名前: 土狸 ID:GfkZ8ERs

淡路陶業の精華
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00058704&TYPE=HTML_FILE&POS=1

これを見ると賀集家は賀集の出ではなく阿万発祥のようです。
a平焼で有名な賀集a平が北阿万伊賀野の生まれだそうです。


淡路焼関連年表
http://www.hijiriya.com/minpei_1.htm

ダントーの前身となった淡陶社はa平の親族の欅田善次郎と息子の欅田善九郎が設立したそうです。
賀集家と欅田家は親戚同士ということなのでしょう。


淡路焼関係者表
http://www.hijiriya.com/minpei_2.htm

a平の母親が欅田家の出のようです。
メンテ
賀集の田中家 ( No.6 )
日時: 2012/01/21 08:56
名前: 土狸 ID:GfkZ8ERs

国の登録有形文化財(建造物)田中家住宅主屋の庭
http://gardens.seesaa.net/article/88068121.html

賀集の田中家は淡路島にタマネギ栽培を広めた田中万米や純正調オルガンを発明した田中正平などを輩出した淡路島でも屈指の名家だそうです。
メンテ
とりあえず ( No.7 )
日時: 2012/01/25 19:44
名前: 管理人 ID:12JxqSnM

wikipediaの「淡路島」のページの出身有名人に賀集喜一郎と賀集a平をとりあえず追加しました。

wikipediaの個人のページは作成していません。

とりあえずと言うことで〜

淡路焼とかa平焼ででも、wikipediaに詳しい方がおられたら載せて欲しいところですね。
メンテ
田中家と奥浜家 ( No.9 )
日時: 2012/01/26 18:18
名前: 土狸 ID:CY5KInZE

日経新聞に樋口季一郎の記事
http://goukazunari.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-d48f.html

このブログを見ると田中家(賀集)の田中正平と奥浜家(阿万)の樋口季一郎は遠縁に当たるようです。

田中家も奥浜家も江戸時代に廻船問屋として栄えた地主の家系ですのでその関係でしょう。
メンテ
樋口季一郎 ( No.10 )
日時: 2012/01/26 18:38
名前: 土狸 ID:CY5KInZE

http://blog-imgs-24.fc2.com/i/m/p/imperialarmy/higuchi001.jpg

ところで若い頃の樋口季一郎はなかなかの男前ですね。
メンテ
たしかに ( No.11 )
日時: 2012/01/26 20:03
名前: 管理人 ID:ehRUoeYM

たしかに、樋口季一郎は男前ですね。

田中さんと言えば、同級生に田中さんが一人いました。
ひょっとして、関係あるのかも?
とか思ったり〜


話は変わりますが、Googleで「賀集喜一郎」で検索すると、
当掲示板の記事が2番目に表示されています。
1番目がAmazonです。
数日前に書いた掲示板の記事が早くもGoogleにINDEXされ、検索順位も2番目とは、
Googleのすごさに感動もします。
メンテ
樋口季一郎 ( No.12 )
日時: 2012/01/26 23:09
名前: 土狸 ID:CY5KInZE

http://goukazunari.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/12/22/save0011.jpg

因みに樋口季一郎の妹さんのちよのさん。
これまた美人さんです。


賀集の田中さんで豪邸に住まわれてたら間違いなく田中家の方だと思われます。
メンテ
洲本高校選抜出場おめでとう ( No.13 )
日時: 2012/01/28 01:06
名前: 管理人 ID:Y1y.mDmE

賀集でも、私は福井側なので良く知りません。
今思うと、小学生の時のクラス分けは地域で分けていましたね。

しかし、洲本高校の選抜出場が決まりましたが、これで甲子園出場は何回目だろう?
一度選抜で優勝しているし。
洲本実業や津名も甲子園に出てますよね。
それに引きかえ、我が三高は〜
南あわじからサッカーでは良い選手が多くでているのにね!

夏はがんばれ!
メンテ
地主さん ( No.15 )
日時: 2012/02/09 18:58
名前: 管理人 ID:2HfPObB.

私が小さい時、小学校の帰り道に福井の川沿いにあった廃墟は何だったのか?
母親に電話で聞いてみました。

やっぱり、大きな屋敷があり、何人もの人を使う大地主だったようです。
名前は知らないようでした。
ただ、賀集一族ではないと言います。
私の母親は阿万出身なので詳しくはなく、正確な情報はないようでした。

昔って、どこの地域でも大きい庄屋さんてあったんでしょう。

メンテ
くたばれ愚連隊 ( No.16 )
日時: 2012/02/11 14:43
名前: 管理人 ID:.nuThAD2

とても大きくて、何か財閥家族が住んでいた屋敷跡のようでした。
廃墟になっていました。
私は学校の帰り、その前の道を通る時は、その空間は違う世界に感じました。

その大きな廃墟は何んだったのか?
答えらしいものを書いたWEBが見つかりました。
スマートフォンでネットサーフィンをしていて見つけました。
(ネットサーフィンって言う言葉は古い?)

やはり、その廃墟は賀集一族の一人である賀集新九郎の屋敷跡のようです。
賀集新九郎は、現在の淡路交通の前身の淡路鉄道の創設者です。
この屋敷は、なんと3500坪もある敷地だと言います。
しかし、その屋敷は1965年に全焼し、現在は外塀しか残っていないようです。

私は、この外壁の横の道を通って学校へ行き来したりすることもありました。
今は外塀しか残っておらず、中は森になっているようです。
私が小学校の時は中に入れた記憶があります。

そして、この賀集新九郎邸で、映画のロケも行われたこともあるようです。
1960年の日活映画「くたばれ愚連隊」です。
原作が、なんと原健三郎です。
な、なるほど!

参考のホームページです。
http://koji128.web.fc2.com/roketi/kutabare/gurentai.html
おまけ映像の注釈の中で屋敷の外塀の写真が載っていますが、まさしくあの前の道です。

また、「くたばれ愚連隊」の動画がYouTubeにありました。
このビデオのシーンは賀集新九郎邸で行われたようですね。
淡路鉄道まで映ってます。
http://www.youtube.com/watch?v=Ns0ldvsGxCM
メンテ
淡路の資産家達 ( No.17 )
日時: 2012/02/11 17:57
名前: 土狸 ID:zeDKIJgQ

恐らくa平焼で財を成した賀集一族で賀集新九郎の父親でもある賀集隆造が福井に居を構えたのでしょうね。
隆造の弟の賀集寅次郎も鐘淵紡績の前身である淡路紡績の創立にその名を列ねています。


明治中期の淡路紡績関係史料 (一 )
http://web.pref.hyogo.jp/pa13/documents/000123137.pdf

賀集寅次郎は、福井村の人、三原郡長から収税長まで昇任、退官後淡路紡績の創立、運営にかかわった。
福良町長にも就任。

と資料に書いてあります。


因みに淡路紡績その他の発起人も名家出身の御仁達です。

藤江章夫は、広田村の出身、三原郡長を務めた後、淡路紡績取締役。
大阪南区綿屋町にも住み大阪アルカリ社長、その他汽船、水力発電、鉄道業に関係した。

佐野助作は、物部村の人。
阿波藩組頭庄屋の家柄、民権運動にかかわり第一回衆議院議員選挙に自由党から出馬当選、以後三期議員を務めた。
淡路紡績の監査役に就任。洲本町長在職中病没。
「淡路の西郷はん」の称。

鈴木三郎は、仁井村の人、津名郡長で三原郡長を兼任。
発起人中最も高齢の天保三年(一八三三)生まれ。
地域開発に尽力し「土木郡長」の名で呼ばれた。

奥野小四郎は、洲本町の人、県会議員を務める。
のち北海道に移住し、帯広町長にも就任。
衆議院議員として第二回の補選と第八回総選挙で当選。
立憲政友会に属した。


藤江章夫
大阪アルカリ(石原産業の前身、大阪アルカリ事件で有名)

佐野助作

鈴木三郎
仁井村出身とのことなので幕末の国学者の鈴木重胤と同じ家系の出身だと思われます。

奥野小四郎
後に帯広市となる帯広町の初代町長さんです。


以上です。


他にも伊藤聴秋の子である伊藤重義や東京控訴院検事長を務めた吉益俊次の名もあります。

伊藤聴秋
メンテ
訂正 ( No.18 )
日時: 2012/02/11 18:10
名前: 土狸 ID:zeDKIJgQ

間違えました。

天保三年(一八三二)
1832年でした。
メンテ
文化財として ( No.19 )
日時: 2012/02/11 18:33
名前: 管理人 ID:.nuThAD2

土狸さん

いろいろ新情報、ありがとうございます。
なにか、頭の中のモヤモヤが取れた気がします。

元町の賀集書店、a平焼、田中家、淡路鉄道〜
次から次にでてくる淡路島の歴史に驚くと同時に誇らしく思ったりしています。

賀集新九郎なんかもwikipediaに載せるべきだと思いました。
あの賀集新九郎邸跡の塀も淡路の文化財として残す価値があるように思いますね。
メンテ
賀集一族の出自は一体? ( No.20 )
日時: 2012/02/11 20:42
名前: 土狸 ID:zeDKIJgQ

賀集一族が北阿万伊賀野から賀集福井に移る辺り案外
賀集に出自があるのかも知れませんね。
やはり戦国武将の賀集盛政と関係があるのかも知れません。


藤江章夫
ここには播磨出身とありますが正しくは広田の出身ですね。

伊藤聴秋
ここには淡路島出身とだけありますが正しくは洲本の出身です。

吉益俊次
wikipediaでは書かれてみませんが由良の出身です。
メンテ
淡路紡績の、明治時代の住居表示は? ( No.21 )
日時: 2024/09/15 01:34
名前: エリスリナ・ガル ID:D8MeHE8Q メールを送信する

No.17 の明治中期の淡路紡績の資料(一)が、開けません。

もし、次のものと同じなら、少し見たい、確認したい事が有ります。
出資予定者の、住所・住居表示なのですが、市政が引かれた大阪市は別として、淡路島居住の出資者の住所は、全て『〇〇番屋敷』或は『何番邸』となっています。

明治27年の事ですから、明治31年の改正戸籍が作成される前の事ですから、三原郡史の賀集九平の住所が地番表示となっているのは、チョット変な感じがします。
確か、九平は明治29年生まれだった、のでは?

https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk32/documents/000123137.pdf
メンテ
淡路紡績の筆頭出資者、伊庭満正とは? ( No.22 )
日時: 2024/09/20 07:32
名前: エリスリナ・ガル ID:5qZWR5sI メールを送信する

淡路紡績の当初の出資者の中に、広瀬満正でしたか、広瀬宰平と別子銅山の伊庭貞剛の名前が上っておりましたから、住友の関係が深い様です。

別子銅山も当初は山中で鉱石を焼成したので、銅山周辺の山は禿山になってしまった様です。亜硫酸ガスが原因で、足尾銅山の田中正造の話と同じことが、新居浜と大阪アルカリでも起こって居たのですね。別子銅山は、その後精錬を麓の新居浜から沖合の四阪島へと、移したので被害は減少したと。大阪アルカリ事件はその切っ掛けだった、のかな?

参考に住友林業の沿革と、高峰譲吉の日産化学、大日本肥料?と、当時の財閥系の硫酸から作られる、肥料製造会社を紹介します。

伊庭貞剛 https://g.co/kgs/8mzWbcR

https://shashi.shibusawa.or.jp/details_basic.php?sid=3400

https://sfc.jp/information/company/history/
メンテ
京都と東京にあった、同名の瓢池園とは? ( No.23 )
日時: 2024/09/22 20:44
名前: エリスリナ・ガル ID:GUZdjKu6 メールを送信する

広瀬満正と広瀬宰平、そして伊庭貞剛は、コチラへ

https://www.kouseiin.org/kankeishs-profile.html

また、京都の瓢池園と同名の瓢池園については、

https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/shiseki/15936.html

この東京の瓢池園の事は、賀集三平とウィーン万国博覧会へと、続きます
メンテ
東京の瓢池園の設立経緯は、 ( No.24 )
日時: 2024/12/30 08:20
名前: エリスリナ・ガル ID:Ch2w/Feo

東京に設立された、瓢池園の設置の経緯は、ココに有りました。

https://photos.app.goo.gl/onGRjaA5dBA4Uvbu5

https://photos.app.goo.gl/RAzcoDZCmMsRBVrA6

日[おう]からみた明治日本の姿、の第6章
『幕末・明治初期の万国博覧会と佐賀藩ネットワーク
輸出陶磁器を中心に』伊藤真実子
メンテ
オールドノリタケの時代と賀集三平 ( No.25 )
日時: 2025/01/05 01:20
名前: エリスリナ・ガル ID:w5FgZn5c

うっかり、見落としておりました。

東京と京都の瓢池園の由来が、オールドノリタケにあったとは、きつ、きませんて、した。https://tama.repo.nii.ac.jp/record/196/files/Itani%20Yoshie.pdf

森村組が名古屋に、とばかり思い込んて、おりましたから。これで、賀集三平の陶工としての作品と、大量生産を前提とした輸出デザイン陶器には出番がなくなった様です。
メンテ
賀集三平のオーストリア博覧会出品の件 ( No.26 )
日時: 2025/01/08 07:40
名前: エリスリナ・ガル ID:0Ol4nVto

探して、いた、賀集三平の文書・書類がいつの間にか、閲覧出来る様になっておりました。不思議なことですが?

https://photos.app.goo.gl/bxoL7RsMnb1aKpYG7

箕輪村の文化財の賀集杢之助盛親の史跡の写真は、やはり新年が過ぎても閲覧出来ません、残念ですが。
ホームページを箕輪村が更新したみたいで、古いリンクは接続出来ていない様ですから。
メンテ
淡路島内でも、商店案内が出ていたようです ( No.27 )
日時: 2025/01/12 05:03
名前: エリスリナ・ガル ID:wCCmGQlk

うっかり、神戸の老舗の本屋さん、賀集書店はみおとしてしまいましたが

兵庫県内のその他の動画、ん、銅版画の商店案内には、淡路島の商店もBで紹介されておりました。


https://photos.app.goo.gl/xDjhuQRssfj9mmY49

https://photos.app.goo.gl/KY9mtkQtQyBQa4ya7

これに刺激されて、三平も『買い物手引き」を出版したのかも
メンテ
神戸の港から淡路島に向かうには ( No.28 )
日時: 2025/01/19 00:47
名前: エリスリナ・ガル ID:AJzmsfEs

『明治の商店』「開港・神戸のにぎわい」の

https://kobe-yomitai.jp/book/333/

神戸新聞総合出版センターより144ページには
兵庫県下 兵庫宮内町 筏まち 日々出港仕◯、の左上に淡路行の
幟、旗が描かれていました。
汽船乗客荷物扱い◯と、読むのかな

https://kobe-yomitai.jp/book/333/https://kobe-yomitai.jp/book/333/https://kobe-yomitai.jp/book/333/
メンテ
高田屋嘉兵衛の屋敷は? ( No.29 )
日時: 2025/01/29 10:50
名前: エリスリナ・ガル ID:T8KyyYQk

気になっていた、高田屋の事がココに載っておりました。三行目に嘉兵衛のやしきを譲り受けたと、ありました。

https://photos.app.goo.gl/nov38Z1WMLP6Gm377
メンテ
八雲からの大谷正信・繞石宛の書簡は ( No.30 )
日時: 2025/02/06 13:11
名前: エリスリナ・ガル ID:iDhXS8zM

大谷と小泉八雲の事を調べて、いたら、何と昭和5年発行の八雲全集が県立図書館書庫に有りました。原爆で浅野図書館も焼失していたから。
その中には、八雲から大谷に宛てた書簡(y.こいずみ)も収録されておりました。
幾つかの全集が出版されているようですから、神戸の八雲、旧居宅に開設されている記念館で確認出来るのでは、無いですかね?

https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA31554769.amp
メンテ
小泉八雲と大谷正信の関わりは ( No.31 )
日時: 2025/02/13 11:45
名前: エリスリナ・ガル ID:oPInbhOk

小泉八雲と大谷正信・繞石について、再度確認しました。

大谷正信は、小泉八雲が松江中学校に在職していた時の教え子でした。その後、東京帝国大学 (現在の東京大学)に進学し、小泉八雲の著作の翻訳や、八雲の作品の資料提供などを行っています。
以下に、大谷正信と小泉八雲の関係について記します。
* 松江中学校時代
大谷正信は、小泉八雲が松江中学校に在職していた時の生徒でした。小泉八雲は、英語教師として赴任した松江で、生徒たちに英語や文学の面白さを教えました。その中の一人が、大谷正信でした。
大谷は、小泉八雲の授業に感銘を受け、文学に興味を持つようになりました。また、小泉八雲の著書を読み、その思想や文章に触発されました。
* 東京帝国大学時代
大谷正信は、東京帝国大学に進学しました。小泉八雲もまた、東京帝国大学の講師となりました。大谷は、小泉八雲の講義を受けたり、八雲の研究室に出入りするなどして、親交を深めました。
* 小泉八雲の著作の翻訳
大谷正信は、小泉八雲の死後、その著作の翻訳を行いました。特に、『小泉八雲全集』の翻訳は、大谷の功績として知られています。
* 小泉八雲の作品の資料提供
大谷正信は、小泉八雲の作品の資料提供も行いました。八雲の作品に登場する人物や場所、伝承などを調査し、八雲に提供しました。
このように、大谷正信は、松江中学校時代から小泉八雲に師事し、その後も親交を深め、八雲の著作の翻訳や資料提供などを行うなど、深い関係がありました。

また、次の様にも、返って来ました。

小泉八雲の怪談「十六桜」の原拠(出典)は、愛媛 淡水生「十六日桜」 『文藝倶楽部』 第7巻第3号 明治34年(1901)2月 (「諸国奇談」六篇の一つ)です。
小泉八雲は、この話を怪談としてまとめ、「十六桜」として発表しました。
メンテ
大谷の『八雲の蟲の文学』は ( No.32 )
日時: 2025/02/24 10:41
名前: エリスリナ・ガル ID:qrVyjQr6

大谷正信・繞石の『八雲の虫の文学』については、

https://photos.app.goo.gl/V9GKdXGBdtLfLMnYA

築地書館の長澤純夫先生の解説が、ありました。

https://photos.app.goo.gl/4Tw7cUXv9jvdb2Za8
メンテ
橘南谿の十六日桜を大谷は見ていたのでしょうか? ( No.33 )
日時: 2025/03/12 13:49
名前: エリスリナ・ガル ID:Q/6Sla72

大谷は、寛政時代の医師、橘南谿の本は見ていなかったのでしょうか?

http://www.yokogaku.jp/cn39/cn72/nankei.html

恐らく、一茶はこの西国奇談、紀行は見ている様な気がします。

八雲に資料提供したリストが有れば良いのですが、八雲が大谷に送った書簡は残っているようですし、八雲全集にも大谷の訳も収録されているから、何処かに存在している様な気がします。

https://www.fureai-cloud.jp/_view/tie/doc/view/16127/

橘南谿は
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=90

最近の記事でしたら、
https://www.chunichi.co.jp/article/1016429

平凡社の東洋文庫から出版去れているようですから、大谷が教えていた図書館にも南谿の和本は所蔵されていたと思われますが、実際に手にしたかのかは、わかりません。
メンテ
半場里丸の淡路島の一の宮を詠んだ句で ( No.34 )
日時: 2025/03/19 06:56
名前: エリスリナ・ガル ID:EjDXorpU

橘南谿が『西遊記』で伊予松山を訪れたのは、桜のシーズン、春の四月頃だったのでしょうか?

http://blog.z-abc.com/?eid=1054452

この問題の答えのとおり、旧暦の正月つまり1月、十六日に咲くから孝子桜の十六日桜ですから春にはもう葉ばかりで、花は散っています。残念だ、と記している訳です。

何故一茶が西国紀行で伊予松山に向かった理由のひとつが、この十六日桜を見ること、俳句の市竹阿も訪れてる事は判っておりましたが、改めてて、大妻女子大学の永井義典先生の論文、半場(里丸)と井上俊作氏の井上良a・杉長の解説を詠んで納得しました。

https://drive.google.com/file/d/1Qh7GD4_c5ZlQdqHJ-002v7cCvJ7R1ulY/view?usp=drivesdk

何と、里丸は夏目成美の随斉の処で開かれた句会に、一茶も杉長も参加しており、連句の発句には、淡路島の一の宮を詠んでいたのです。これで、小林一茶と随斉、杉長の関係がハッキリしましたから、野島崎の芭蕉の追悼句碑と杉長墳の関係も理解出来そうです。

あとは、方壺が阿保の千倉村に移住して千田村の長性寺の住職になったのか、同名の俳人で有るかが、問題として残りますが、
メンテ

Page: 1 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成
題名 タイトルは次の画面で設定してください
名前
E-Mail 入力時 メールを送信する からメールを受け取れます
URL
パスワード (記事メンテ時に使用)
投稿キー (投稿時 投稿キー を入力してください)
コメント

   クッキー保存