[86] 画家・富山妙子のルーツ
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- 日時: 2024/07/30 06:23
- 名前: 富山
ID:q1fb2dX.
- 富山妙子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E5%A6%99%E5%AD%90
淡路・富山妙子「解放」の原点 https://doi.org/10.15083/0002000103
本章では、富山が父・三男の死後に編んだ遺稿集『赤い夕陽の満州&ス凡な明治じじいの回想』(1989年)をもとに、富山家の来歴をたどっていく。なお、父は84歳から世田谷区の老人ホームに入所し、1988年に91歳で死去している。
淡路島の緑町字倭文の地に富山一族の墓所は位置している。奥深い山中にある小山状となった場所を囲むように敷石が配され、さらにこれに沿って墓石が整然と並び立っている。墓石の中には江戸時代にまで遡るものもある。その一画に「解放」と刻まれた、ひときわ大きな墓が存在する。「解放」の文字の下には三つの長方形の窪みが穿たれており、そのうち二つには富山の両親の名前と生年・没年を記した金属プレートが嵌め込まれている。
富山の両親はともに淡路の出身である。父の姓は「神田」で、江戸時代から続く富農の出身だったが、彼が神戸の中学を出た頃には、既に実家は没落していたという。その後、親族とともに神戸に移住し、イギリス企業・ダンロップ社に勤務した。1920年に富山美己と結婚、妻方の後継者が亡くなったことから婿入りし、「富山」姓となる。美己は淡路を出て夫妻は神戸に生活の拠点をおき、そこで妙子が誕生した。両親ともに故郷に対する執着はなく、実にあっさりと捨て去っている。それは個人の自由を束縛する「封建的な家制度」の色濃く残る淡路よりも、進取で自由の気風に富む物質文明に彩られた「西洋」世界を志向していたからだという。
富山は父の遺稿集に添えたエッセイ「根なる淡路の土に帰る」の中で、神戸での生活が実に華やいだものであったと語っている。
まっ先にラジオや蓄音機を買い、神戸の元町で買ったハイカラな服をわたしに着せ、椅子やテーブルを置く生活は「身分不相応な暮しをする、毛唐かぶれ」と、親類から攻撃を浴びていた。
父親からすれば淡路島はもはや「後進地帯」であり、まして伝統芸能の人形浄瑠璃などは「古くさい田舎芝居」程度の価値しか見出しえないものとなっていた。それゆえ両親は「淡路の文化の根を断ち切って」しまったのであった。
その後、「大陸へのあこがれ」から、満州に拠点を移すこととなる。1932年に満州国が設立されるにともない、父はダンロップに勤務しながら、軍隊(関東軍)とも密接な関係を持つようになったという。その後、富山は女子美術専門学校に入学するため母とともに帰国するが、やがて戦争が深刻化し、東京にまで空襲が及ぶようになると、長野県へと疎開した。その間、富山に淡路を想う機会などなく、そこは全く縁もゆかりもない、自分とは無関係の場所だったのである。
そんな富山が淡路とつながるきっかけとなったのは、1974年の母の死去であった。富山父娘と近親者たちは東京に住んでいたため、東京周辺に墓地を求めることにしたが、業者から次々と送られてくる「墓地や墓石のカタログ」に、人の死にまで入り込もうとする「商業主義」の匂いを嗅ぎ取り、抵抗を感じたことから、両親が捨てた淡路を顧みるようになったという。
結果として、そこには富山自身が旅でつかんだ「解放」の根につながる豊かな伝承世界が拡がっていた。この点については次章で詳しく述べるとして、以下、富山の両親が淡路に残していった家の、その後の状況について付記したい。
富山家の家屋は、同じ富山姓だが血縁関係にはない富山耕作という人物に譲られ、耕作はこれを隠居屋として使用したという。現在、その家は草むした廃墟となっており、墓地の管理は耕作の兄・豊八の孫にあたる富山文昭氏(1945年生)が行なっている。
では、この富山姓が多く住む倭文という地域はどのような場所だったのだろうか。2019年12月に富山文昭氏に面談し、聞き取った話をもとに整理しておこう。
倭文は農業と林業を生業とし、特に林業は現在も盛んで、文昭氏自身も建材用、燃料用として松の木を伐採し、販売しているという。また農業に関しては、昭和30年代まで「エビス舞」が行なわれていた。1月末から2月の初頭になると、エビスがやって来て、舞を舞った後、餅や柏の木の葉に包んで竹で挟んだ団子状のものを配ったという。それを苗代の田の畔に突き立てていたという。
富山の父方祖父の苗字は「神田」で、かつての居住地は倭文の庄田という集落である。一方、母方の富山姓は武士の家柄だった。富山の祖父・彦太郎が仕えていた徳島藩では廃藩置県の前年、1870年に家臣の大半が北海道に移住したが、彦太郎は淡路に残り家塾を開いた。そのため、村人からは「お奉行さん」と呼ばれていたという。ちなみに富山彦太郎の名は『淡路國名所圖繪 巻之五』(1884年)という地誌の中で、巻末の「淡路國名所圖繪豫約出版加盟人名録」中、倭文村の筆頭に出てくる。彦太郎は、妻が肺病を病んだことから、夫婦で四国巡礼に出ていたこともあるという。
ちなみに富山の姓は、地元の寺社(郷社・庄田八幡宮及び真言宗・平等寺)の寄進者には名を連ねてはいるものの、明治以降の淡路の行政組織の構成員にその名を見出すことは一切ない。いわば、謎の知識人を祖に持つ一族と言わざるをえない。
以上から、独立心と開拓精神、知的探求心に富む画家・富山妙子の性格の一端が、父母のみならず、先祖から引き継がれたものであることがうかがえよう。
淡路島は、先進的な文明を求めて故郷を捨てた両親にとっては、まさに「遠くにありて想うもの」であり、富山自身にとっては画家としてのアイデンティティを求めた旅路の果てに見出した「解放」と共鳴する地であった。
1977年に淡路人形の保存活動を行う「財団法人淡路人形協会」が設立されるまで、さしも伝統の淡路人形座ではあったが、それも衰退の危機に瀕していた。富山が淡路を訪れ、南淡町の船着き場で人形芝居を見たのはその3年前である。その日の出し物は『傾城阿波鳴門』だった。その一幕、巡礼の子おつると母お弓の再会の場を見て、思わず目頭が熱くなったという。それというのも「人形のしぐさ、袖のうごき、息づかいに」若き母の姿、捨て去ったはずの故郷を想いながら演じ、かつそこに自らの流浪の人生を重ねた姿を実感したからである。それは過去との邂逅を通じた、母自身にとっての「解放」の姿だったにちがいない。父は自らの来歴を整理する過程で自らの「解放」に至り、「解放」の墓碑銘の塚の下に眠った。
そして富山はと言えば、淡路での旅を題材にしたと思われる『蛭子と傀儡子─旅芸人の物語』の中で、蛭子を西宮神社の戎のように一か所に留まり福徳をもたらす神としてではなく、あくまでも原初の状態そのままに旅芸人たちとともに漂流しつづける蛭子神として描くことを通して、自らの「解放」の一つの終着点を見出したと考えられる。
このことは,富山一家が「解放」に至るまでには、各々の体験こそ異なるものの、いずれも「淡路」という結節点が不可欠であったということを物語っていよう。
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