賀集三平の足跡と万国博覧会 ( No.1 ) |
- 日時: 2024/08/08 23:14
- 名前: エリスリナ・ガル ID:S7YrlIJQ
- 賀集三平と賀集a平
淡路焼創業者賀集〓平略伝, 淡陶株式会社, 〔刊年不明〕. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I28111102688776 コレは、淡陶社が大日本窯業會の会誌に能勢敬三が投稿した記事を掲載しているのでしょうか?
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賀集三平の事は殆ど、記録が残ってないのでしょうか? ( No.2 ) |
- 日時: 2024/08/10 21:08
- 名前: エリスリナ・ガル ID:Uvq/9BAg
- ネット検索では、雑報◯淡路焼創業者賀集a平傳として閲覧出来る様になりましたが、リンクを未だに貼付け出来ません。もう少し、チャレンジして見たいと思います。なお、別件で、ウィーン万国博覧会に出品する、物件を探しに元徳島藩士でしょうか?高鋭一が淡路島に渡ったコトが出てきました。また、ウィーン博覧会の事務局雇いとなとったワグネルは田村久兵かな、オノコロ焼に関わっていたと、言うのも有りました。賀集三平かウィーン博覧会に淡路焼焼六点を出品し、博覧会デビューを飾ったことは、別稿で触れて置きました。徳島藩の官窯と淡陶社、のちに株式会社となり、現在のタイルメーカーのダントーに繋がっていることは、何処にでも触れられているものの、陶工としての作品や博覧会の出品作は何処かの博物館や美術館に収納されているのでしょうが、一品作品ではない工業製品としての小皿や食器など、は型押しの大量製品として生産・流通したからこそ淡陶社製品となって、表舞台からは、三平の名前は埋もれてしまったのでしょうか?
伝統的な焼き物産地として、家内工業や同業他社と陶芸組合を結成して、継続発展してきた他の産地とは、日本で二番目に会社組織として発展・成功して現在に至るタイル・建材メーカーの歴史、淡路島独特の歴史があったのでは、ないかと、そこが知りたいと、a平焼、淡路焼やオノコロ焼?、そして瓦の産地とどの様は位置、を村から町、そして南淡町を経て南あわじ市の門外漢ですが、少しづづ右往左往しながら、辿って行きたいと、思います。 そもそもの発端は、別稿の渡辺(遊佐)盈作の著作を探してからのことです。 新宿御苑内に開校された農業修学所の獣医科の同級生には、広島県の七塚原種畜、場の初代場長功刀(クヌギ)や丹下ほか、下総の御領牧場や新ひだか町にも官営の牧場が開かれているようですから、何か関連した、何かがあるはずだと思っています。 万国博覧会だけでなく、内業博覧会や共進会等の牛や馬の品評会など、また、酪農も淡路島には深い関係が、ありそうだと、エビータのセイボを尋ねる中で、もう少し知りたいと。賀集九平の件は皆さんのお陰でソロソロ収束しそうですから、管理者の方ももう少しお付き合いをお願いします。
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どんどんカキコ、よろしくお願いします(^^) ( No.3 ) |
- 日時: 2024/08/10 21:58
- 名前: 管理人 ID:F/gaWOWQ
- よろしくお願いします。
どんどん
カキコお願いします。
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a平傳と江戸末期の諸国産物帳、阿波・淡路島編から ( No.4 ) |
- 日時: 2024/08/13 14:54
- 名前: エリスリナ・ガル ID:rm3JYEgA
- なかなか、一筋縄と言うか、a平傳は国会図書館のリサーチでは、表示・リンク出来たのに、本編・本文は未だに行方知らず、エビデンスに迫れません。残念ながら、。そこで、能勢敬三の記した伝記の中の2点、に付いて少し触れたいと、思います。まず、a平は苦労して各地から陶工を招いて作陶の技法や技術、また、釉薬を研究したとありました。更に、事業の発展を願い、幕末の一年か、年代はふめいですが、江戸屋敷で過ごした様ですね。
だと、したら、江戸詰めの学問所か藩の仕事をしていた渡辺盈作の父親とは面識がら有ったのではないか、と。勿論武士と平民のa平では、住まい(上屋敷・下屋敷)も、職場も違ってはいたと、思いますが、作陶・陶芸家と商売人と言うか、藩の殖産興業に於いては、藩政の重要な位置を占めていた筈ですから。阿波の藍や産米と同様に、重視されていたコトが伺えます。また、a平は諸外国の焼き物や工芸品にも関心を持っていた様にも、思われますが、確実な事は判りませんが、徳島藩、は早くから、蘭学と共に英学の学校を開いたり、藩主が城に招いたのはオールコックだったのか?、明治の時代早々に英国に留学したいと、耳打ちしたとかも、話としては伝わっている様ですから。もう一つ加えるならば、幕末にはもう、徳島藩が英国製の艦船かな、蒸気船を購入していたとも、何処かに出でいました。 本題は、阿波・淡路島の産物帳と高鋭一との事なのですが、長くなりましたので、今回は、此処まで。
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高鋭一の製品図説から、鮎と海苔 ( No.5 ) |
- 日時: 2024/08/16 11:00
- 名前: エリスリナ・ガル ID:PqKQsufE
- まず、取り敢えず高鋭一が編集した、香魚と浅草海苔を、
https://nrifs.fra.affrc.go.jp/book/D_archives/2010DA004.html
https://nrifs.fra.affrc.go.jp/book/D_archives/2011DA005.html 明治10年と解説がありましたから、ウィーン博覧会や内業博覧会時に出品したものを纏めて出版したのでしょうか?当時としてはまだ、活版印刷や石版印刷は一般には普及していないと思います。
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高鋭一の製品図説の前の、水物彙?は ( No.6 ) |
- 日時: 2024/08/19 09:38
- 名前: エリスリナ・ガル ID:Bd4Pdmes
- 賀集三平の履歴や業績の話題に戻るまえに、もう一つ高鋭一の著作に付いて触れて置きます。
恐らく高鋭一が幕末、徳島藩の本草学か医師かな?時代の著作ダロウと、思いますが、何だか、当初水産動物に関心を寄せていた渡辺えい作が影響を受けた環境を感じていませんか?この辺は改めてサーチするコトにして…、以下をご覧ください。
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ni15/ni15_02561/index.html
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賀集三平の後半生は、判明! ( No.7 ) |
- 日時: 2024/08/23 23:19
- 名前: エリスリナ・ガル ID:wXw.TP0w
- 相、前後しますが
賀集三平については、陶器大辭典(昭和55年7月1日発行.復刻版初版発行)巻二に、 明治17年東京に濃茶社を興したが経榮困難のため21年ついに同社を解散し、淡路の方の陶業も淡陶會社に合併せらるゝに至った。 三平はその後横濱に赴き陶器の金焼付けを試みたが、失敗し東京へ歸り不遇中に、明治42年8月28日、壽六十六を以て病没した。(『日本陶?史』による)
やはり、予想通りと、言うか、想像の範囲にはありましたが、現実は厳しい、特には販路を世界に広げたから…と、だけでは無いにしても?
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博覧会事務局の調査報告らしきものが? ( No.8 ) |
- 日時: 2024/08/27 19:31
- 名前: エリスリナ・ガル ID:wPKp0Yek
- コンナのが、出てきましたね。ウィーン博覧会に関する報告書とか、が含まれているようですが、全てを閲覧する訳には行きません。賀集三平が関わったと思われる陶器や工業製品をメインに見ていくと、出品した作品に行き当たるかも、知れないと思います。
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000000519&ID=&TYPE=dljpeg
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大鳥圭介も博覧会の出品審査をやっていた? ( No.9 ) |
- 日時: 2024/09/01 09:03
- 名前: エリスリナ・ガル ID:fAJBM18M
- 博覧会の記事を探していたら、洲本出身の中川由佳さんですかね、上郡の偉人伝を連載しておられました。
岡山の閑谷校、適塾とそして、淡路島にも足跡を残しているようですから、一読されると、賀集三平等の窯業や工芸製品の出典審査に関わっていた事が、解ります。
https://www.town.kamigori.hyogo.jp/soshiki/somuka/gyomuannai/10/1/1272.html
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賀集三平は明治政府の要請でしょうか、名東県から ( No.10 ) |
- 日時: 2024/09/04 17:06
- 名前: エリスリナ・ガル ID:R7SkTtNs
- No.8の31番目でしょうか
名東県下賀集三平…澳国賞牌佩用心得方答示はご覧になりましたか?
やはり、オーストリア万博博覧会に三平は出品、受賞していた様ですね。
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佐野常民とウィーン万国博覧会 ( No.11 ) |
- 日時: 2024/09/10 05:41
- 名前: エリスリナ・ガル ID:gIEC8DiQ
- Nm.8の太政類典、第二篇には、ウィーン博覧会に関する文書や報告が有りました、博覧会の総裁、大隈重信や副総裁の佐野常民の名前もみえます。
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/94/
大河の天に突けでしたか、栄一のパリ万博で佐賀藩や鹿児島藩が日本の代表として参加していることに、不満が…と、描れておりました。
https://www.asobo-saga.jp/spots/detail/6cfd15fd-7c32-4802-896b-b10ea258bcf3
また、履歴として、日赤の総裁?としても
https://www.jrc.or.jp/webmuseum/column/sano-200th/pdf/sanotunetami_record.pdf
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平瀬与一郎は淡路焼ではなくて薩摩焼を? ( No.12 ) |
- 日時: 2024/09/14 08:52
- 名前: エリスリナ・ガル ID:5Yg7wWrk
- なかなか、賀集a平と三平、また、平瀬久太郎と平瀬与一郎の関係が、良く分からな分からなかったのですが、最近、コロナ後に新たな論文が出ていました。
驚きの展開が期待されますが、陶芸の販売も与一郎が手掛けていたとは、しかも、薩摩焼を外国人に販売とは、植物種子や苗木、種鶏の輸入・繁殖に通信販売をしていたなら、輸出も当然の事でしょうが、三平の後、シカゴ?かな万国博覧会にも 出品していた様です。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/omhbull/20/0/20_0001/_pdf/-char/en
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ウィーン万国博覧会を紹介した本から ( No.13 ) |
- 日時: 2024/09/18 00:16
- 名前: エリスリナ・ガル ID:K4BhSBYI
- 先に紹介した、ウィーン万国博覧会についての著書・論文を探していたら、佐賀博物館の学芸員をされていた阿部大地さんを紹介した記事がでておりました。
https://yougakushi-wakate.hatenablog.com/entry/2022/03/10/161654
此処に、徳島藩(阿波と淡路島)の産物の掲載数の比較が載っています。 注目したいのは、他の藩や県(調査・集計時期によります)からの報告件数に比べて、徳島(藩)も淡路島の件数が異常に多い事です。恐らく、先に紹介した、高鋭一が関与していた、からだと思われます。全国各地から集められた産物の中から博覧会(万国博覧会と内業共に)に出品するに価いするものを選定していたのが、鋭一だったのでしょう。だからこそ、維新前の徳島藩の産物を自ら調査し、水もの彙かな?水産の生き物や産物を纏めた辞書の様な報告を纏めたから、他の地域よりも多数の件数を数え上げる事が出来た、様です。
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台湾の本に、淡陶社のタイルが? ( No.14 ) |
- 日時: 2024/09/25 11:04
- 名前: エリスリナ・ガル ID:SadeuUNY
- 8月に図書館で見つけた、台湾で出版された訳本でしたが、新聞でも紹介されていました。
https://www.twovirgins.jp/book/taiwanmajolicatiles/
100年前と、したら明治末から大正の頃に作られた、タイルかな
https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1261569/
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佐賀の有田や唐津の陶磁器の生産地では ( No.15 ) |
- 日時: 2024/09/28 23:20
- 名前: エリスリナ・ガル ID:raUiEUqA
- やはり、時代の流れと言うか、有田の里でも
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20240927/5080018043.html
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広島の都心も装い新たに、パークの再整備が ( No.16 ) |
- 日時: 2024/10/02 21:34
- 名前: エリスリナ・ガル ID:oWRNBzqk
- 万国博覧会の話題ではないのですが、都心の賑わい場所として『平和大通りで、社会実験』が9月末に開催されていました。
https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/peace-boulevard/400313.html
旧市民球場は『ひろしまゲートパーク』として再整備されて
https://gate-park.jp/
また、8月には『スタジアムパーク』も開園しました。
https://www.hiroshima-stadiumpark.jp/
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『東京町名細集』の販売元の賀集三平とは? ( No.17 ) |
- 日時: 2024/10/08 22:47
- 名前: エリスリナ・ガル ID:zQP3UZx6
- 少し前から。気になっていたのが、賀集三平が東京に出てからの事です。
a平焼の販売・営業をやっていたと思いますが、淡陶社の東京営業所としての活動とか?は、良く分かりませんが、万国博覧会への出品は続いていたのかと。
また、同一人物かどうか分かりませんが、古本市場に興味深い出品が出ていました。 https://images.app.goo.gl/ZfHG3hP2bJdE2Y7g9
『東京町名細集』、さらに『東京諸営業員録?』かな、一名『買物手引』にも、編集者として、賀集三平の名前がありました。
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