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スレッド一覧
> 記事閲覧
[88] 賀集三平の足跡と万国博覧会
日時: 2024/08/08 23:08
名前:
エリスリナ・ガル
ID:S7YrlIJQ
賀集三平について、コチラで少しばかり話を進めたいと、思います。内容は徳島藩の官窯を引き継いだ三平が淡陶社の設立まで、何をしていたのか?をメインに、主軸に、ウィーン万国博覧会からニューオリンズ博覧会まで、ちょうど明治17年と時期的には同調していますが、その後は良く判りませんが、明治28年に東京諸営業員員録かな一名、買い物手引きに同名の三平の名前が登場しますから、この辺を話題にしたいと、考えています。
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賀集三平の足跡と万国博覧会
( No.1 )
日時: 2024/08/08 23:14
名前:
エリスリナ・ガル
ID:S7YrlIJQ
賀集三平と賀集a平
淡路焼創業者賀集〓平略伝, 淡陶株式会社, 〔刊年不明〕.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I28111102688776
コレは、淡陶社が大日本窯業會の会誌に能勢敬三が投稿した記事を掲載しているのでしょうか?
賀集三平の事は殆ど、記録が残ってないのでしょうか?
( No.2 )
日時: 2024/08/10 21:08
名前:
エリスリナ・ガル
ID:Uvq/9BAg
ネット検索では、雑報◯淡路焼創業者賀集a平傳として閲覧出来る様になりましたが、リンクを未だに貼付け出来ません。もう少し、チャレンジして見たいと思います。なお、別件で、ウィーン万国博覧会に出品する、物件を探しに元徳島藩士でしょうか?高鋭一が淡路島に渡ったコトが出てきました。また、ウィーン博覧会の事務局雇いとなとったワグネルは田村久兵かな、オノコロ焼に関わっていたと、言うのも有りました。賀集三平かウィーン博覧会に淡路焼焼六点を出品し、博覧会デビューを飾ったことは、別稿で触れて置きました。徳島藩の官窯と淡陶社、のちに株式会社となり、現在のタイルメーカーのダントーに繋がっていることは、何処にでも触れられているものの、陶工としての作品や博覧会の出品作は何処かの博物館や美術館に収納されているのでしょうが、一品作品ではない工業製品としての小皿や食器など、は型押しの大量製品として生産・流通したからこそ淡陶社製品となって、表舞台からは、三平の名前は埋もれてしまったのでしょうか?
伝統的な焼き物産地として、家内工業や同業他社と陶芸組合を結成して、継続発展してきた他の産地とは、日本で二番目に会社組織として発展・成功して現在に至るタイル・建材メーカーの歴史、淡路島独特の歴史があったのでは、ないかと、そこが知りたいと、a平焼、淡路焼やオノコロ焼?、そして瓦の産地とどの様は位置、を村から町、そして南淡町を経て南あわじ市の門外漢ですが、少しづづ右往左往しながら、辿って行きたいと、思います。
そもそもの発端は、別稿の渡辺(遊佐)盈作の著作を探してからのことです。
新宿御苑内に開校された農業修学所の獣医科の同級生には、広島県の七塚原種畜、場の初代場長功刀(クヌギ)や丹下ほか、下総の御領牧場や新ひだか町にも官営の牧場が開かれているようですから、何か関連した、何かがあるはずだと思っています。
万国博覧会だけでなく、内業博覧会や共進会等の牛や馬の品評会など、また、酪農も淡路島には深い関係が、ありそうだと、エビータのセイボを尋ねる中で、もう少し知りたいと。賀集九平の件は皆さんのお陰でソロソロ収束しそうですから、管理者の方ももう少しお付き合いをお願いします。
どんどんカキコ、よろしくお願いします(^^)
( No.3 )
日時: 2024/08/10 21:58
名前:
管理人
ID:F/gaWOWQ
よろしくお願いします。
どんどん
カキコお願いします。
a平傳と江戸末期の諸国産物帳、阿波・淡路島編から
( No.4 )
日時: 2024/08/13 14:54
名前:
エリスリナ・ガル
ID:rm3JYEgA
なかなか、一筋縄と言うか、a平傳は国会図書館のリサーチでは、表示・リンク出来たのに、本編・本文は未だに行方知らず、エビデンスに迫れません。残念ながら、。そこで、能勢敬三の記した伝記の中の2点、に付いて少し触れたいと、思います。まず、a平は苦労して各地から陶工を招いて作陶の技法や技術、また、釉薬を研究したとありました。更に、事業の発展を願い、幕末の一年か、年代はふめいですが、江戸屋敷で過ごした様ですね。
だと、したら、江戸詰めの学問所か藩の仕事をしていた渡辺盈作の父親とは面識がら有ったのではないか、と。勿論武士と平民のa平では、住まい(上屋敷・下屋敷)も、職場も違ってはいたと、思いますが、作陶・陶芸家と商売人と言うか、藩の殖産興業に於いては、藩政の重要な位置を占めていた筈ですから。阿波の藍や産米と同様に、重視されていたコトが伺えます。また、a平は諸外国の焼き物や工芸品にも関心を持っていた様にも、思われますが、確実な事は判りませんが、徳島藩、は早くから、蘭学と共に英学の学校を開いたり、藩主が城に招いたのはオールコックだったのか?、明治の時代早々に英国に留学したいと、耳打ちしたとかも、話としては伝わっている様ですから。もう一つ加えるならば、幕末にはもう、徳島藩が英国製の艦船かな、蒸気船を購入していたとも、何処かに出でいました。
本題は、阿波・淡路島の産物帳と高鋭一との事なのですが、長くなりましたので、今回は、此処まで。
高鋭一の製品図説から、鮎と海苔
( No.5 )
日時: 2024/08/16 11:00
名前:
エリスリナ・ガル
ID:PqKQsufE
まず、取り敢えず高鋭一が編集した、香魚と浅草海苔を、
https://nrifs.fra.affrc.go.jp/book/D_archives/2010DA004.html
https://nrifs.fra.affrc.go.jp/book/D_archives/2011DA005.html
明治10年と解説がありましたから、ウィーン博覧会や内業博覧会時に出品したものを纏めて出版したのでしょうか?当時としてはまだ、活版印刷や石版印刷は一般には普及していないと思います。
高鋭一の製品図説の前の、水物彙?は
( No.6 )
日時: 2024/08/19 09:38
名前:
エリスリナ・ガル
ID:Bd4Pdmes
賀集三平の履歴や業績の話題に戻るまえに、もう一つ高鋭一の著作に付いて触れて置きます。
恐らく高鋭一が幕末、徳島藩の本草学か医師かな?時代の著作ダロウと、思いますが、何だか、当初水産動物に関心を寄せていた渡辺えい作が影響を受けた環境を感じていませんか?この辺は改めてサーチするコトにして…、以下をご覧ください。
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ni15/ni15_02561/index.html
賀集三平の後半生は、判明!
( No.7 )
日時: 2024/08/23 23:19
名前:
エリスリナ・ガル
ID:wXw.TP0w
相、前後しますが
賀集三平については、陶器大辭典(昭和55年7月1日発行.復刻版初版発行)巻二に、
明治17年東京に濃茶社を興したが経榮困難のため21年ついに同社を解散し、淡路の方の陶業も淡陶會社に合併せらるゝに至った。
三平はその後横濱に赴き陶器の金焼付けを試みたが、失敗し東京へ歸り不遇中に、明治42年8月28日、壽六十六を以て病没した。(『日本陶?史』による)
やはり、予想通りと、言うか、想像の範囲にはありましたが、現実は厳しい、特には販路を世界に広げたから…と、だけでは無いにしても?
博覧会事務局の調査報告らしきものが?
( No.8 )
日時: 2024/08/27 19:31
名前:
エリスリナ・ガル
ID:wPKp0Yek
コンナのが、出てきましたね。ウィーン博覧会に関する報告書とか、が含まれているようですが、全てを閲覧する訳には行きません。賀集三平が関わったと思われる陶器や工業製品をメインに見ていくと、出品した作品に行き当たるかも、知れないと思います。
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000000519&ID=&TYPE=dljpeg
大鳥圭介も博覧会の出品審査をやっていた?
( No.9 )
日時: 2024/09/01 09:03
名前:
エリスリナ・ガル
ID:fAJBM18M
博覧会の記事を探していたら、洲本出身の中川由佳さんですかね、上郡の偉人伝を連載しておられました。
岡山の閑谷校、適塾とそして、淡路島にも足跡を残しているようですから、一読されると、賀集三平等の窯業や工芸製品の出典審査に関わっていた事が、解ります。
https://www.town.kamigori.hyogo.jp/soshiki/somuka/gyomuannai/10/1/1272.html
賀集三平は明治政府の要請でしょうか、名東県から
( No.10 )
日時: 2024/09/04 17:06
名前:
エリスリナ・ガル
ID:R7SkTtNs
No.8の31番目でしょうか
名東県下賀集三平…澳国賞牌佩用心得方答示はご覧になりましたか?
やはり、オーストリア万博博覧会に三平は出品、受賞していた様ですね。
佐野常民とウィーン万国博覧会
( No.11 )
日時: 2024/09/10 05:41
名前:
エリスリナ・ガル
ID:gIEC8DiQ
Nm.8の太政類典、第二篇には、ウィーン博覧会に関する文書や報告が有りました、博覧会の総裁、大隈重信や副総裁の佐野常民の名前もみえます。
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/94/
大河の天に突けでしたか、栄一のパリ万博で佐賀藩や鹿児島藩が日本の代表として参加していることに、不満が…と、描れておりました。
https://www.asobo-saga.jp/spots/detail/6cfd15fd-7c32-4802-896b-b10ea258bcf3
また、履歴として、日赤の総裁?としても
https://www.jrc.or.jp/webmuseum/column/sano-200th/pdf/sanotunetami_record.pdf
平瀬与一郎は淡路焼ではなくて薩摩焼を?
( No.12 )
日時: 2024/09/14 08:52
名前:
エリスリナ・ガル
ID:5Yg7wWrk
なかなか、賀集a平と三平、また、平瀬久太郎と平瀬与一郎の関係が、良く分からな分からなかったのですが、最近、コロナ後に新たな論文が出ていました。
驚きの展開が期待されますが、陶芸の販売も与一郎が手掛けていたとは、しかも、薩摩焼を外国人に販売とは、植物種子や苗木、種鶏の輸入・繁殖に通信販売をしていたなら、輸出も当然の事でしょうが、三平の後、シカゴ?かな万国博覧会にも
出品していた様です。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/omhbull/20/0/20_0001/_pdf/-char/en
ウィーン万国博覧会を紹介した本から
( No.13 )
日時: 2024/09/18 00:16
名前:
エリスリナ・ガル
ID:K4BhSBYI
先に紹介した、ウィーン万国博覧会についての著書・論文を探していたら、佐賀博物館の学芸員をされていた阿部大地さんを紹介した記事がでておりました。
https://yougakushi-wakate.hatenablog.com/entry/2022/03/10/161654
此処に、徳島藩(阿波と淡路島)の産物の掲載数の比較が載っています。
注目したいのは、他の藩や県(調査・集計時期によります)からの報告件数に比べて、徳島(藩)も淡路島の件数が異常に多い事です。恐らく、先に紹介した、高鋭一が関与していた、からだと思われます。全国各地から集められた産物の中から博覧会(万国博覧会と内業共に)に出品するに価いするものを選定していたのが、鋭一だったのでしょう。だからこそ、維新前の徳島藩の産物を自ら調査し、水もの彙かな?水産の生き物や産物を纏めた辞書の様な報告を纏めたから、他の地域よりも多数の件数を数え上げる事が出来た、様です。
台湾の本に、淡陶社のタイルが?
( No.14 )
日時: 2024/09/25 11:04
名前:
エリスリナ・ガル
ID:SadeuUNY
8月に図書館で見つけた、台湾で出版された訳本でしたが、新聞でも紹介されていました。
https://www.twovirgins.jp/book/taiwanmajolicatiles/
100年前と、したら明治末から大正の頃に作られた、タイルかな
https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1261569/
佐賀の有田や唐津の陶磁器の生産地では
( No.15 )
日時: 2024/09/28 23:20
名前:
エリスリナ・ガル
ID:raUiEUqA
やはり、時代の流れと言うか、有田の里でも
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20240927/5080018043.html
広島の都心も装い新たに、パークの再整備が
( No.16 )
日時: 2024/10/02 21:34
名前:
エリスリナ・ガル
ID:oWRNBzqk
万国博覧会の話題ではないのですが、都心の賑わい場所として『平和大通りで、社会実験』が9月末に開催されていました。
https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/peace-boulevard/400313.html
旧市民球場は『ひろしまゲートパーク』として再整備されて
https://gate-park.jp/
また、8月には『スタジアムパーク』も開園しました。
https://www.hiroshima-stadiumpark.jp/
『東京町名細集』の販売元の賀集三平とは?
( No.17 )
日時: 2024/10/08 22:47
名前:
エリスリナ・ガル
ID:zQP3UZx6
少し前から。気になっていたのが、賀集三平が東京に出てからの事です。
a平焼の販売・営業をやっていたと思いますが、淡陶社の東京営業所としての活動とか?は、良く分かりませんが、万国博覧会への出品は続いていたのかと。
また、同一人物かどうか分かりませんが、古本市場に興味深い出品が出ていました。
https://images.app.goo.gl/ZfHG3hP2bJdE2Y7g9
『東京町名細集』、さらに『東京諸営業員録?』かな、一名『買物手引』にも、編集者として、賀集三平の名前がありました。
賀集三平の東京での、営業活動?でしょうか。
( No.18 )
日時: 2024/10/12 10:58
名前:
エリスリナ・ガル
ID:Xw3Mmkcc
この『東京町明細集』の奥付けには、芝区桜川町壱番地とあり、賀集三平の所で、販売を一手に引き受けていた、様です。淡陶社の東京営業所とかの記載は有りませんが、『東京諸営業員録、一名買物手引』にも、賀集三平の名前が出ていますので、何らかの関係が有るような気がします。
なお、芝区桜川町九番地は、乃木希典の旧宅があった様ですが、
年代が、ハッキリしていませんが、近所付き合いがあったのかも?
探していた、雑報が閲覧可になりました
( No.19 )
日時: 2024/12/30 12:16
名前:
エリスリナ・ガル
ID:Ch2w/Feo
知らない間に賀集a平翁伝が、閲覧出来る様になっておりました。
ココに、賀集三平のことも言及されておりました。
https://drive.google.com/file/d/1OTSI12WqioD-WQ9elvJd9QvREGEm5sZB/view?usp=drivesdk
長アの外国人の居宅の玄関に淡路製陶のタイル
( No.20 )
日時: 2025/01/06 04:19
名前:
エリスリナ・ガル
ID:qBMhtqPo
少し、余談にはなりますが、長アの貿易商の玄関ポーチに淡路製陶のタイルが使われていた、様です。
https://drive.google.com/file/d/1OJkZ4OGu_eC2It3NQHf7XqTZYGDhH5Bi/view?usp=drivesdk
賀集三平の営業所が判明しました。
( No.21 )
日時: 2025/02/28 15:55
名前:
エリスリナ・ガル
ID:vU6HlHoc
すっかり、忘れておりましたが、
国会図書館の東京の町細見集に何と、賀集三平の名前が有りました。
https://www.kosho.or.jp/upload/save_image/12010425/20221213122825972184_33ddf04a9d7c43bad8c61f5569a552ff.jpg
探せば、一名、買い物手引、同じ、賀集三平の手掛けた、東京諸営業員録
の奥付けにも、同じ住所かな、芝区桜町でしょうか、ある様な気がします。
賀集三平の事業所は乃木神社の近くかな
( No.22 )
日時: 2025/03/09 08:09
名前:
エリスリナ・ガル
ID:R8Ch8pq2
賀集三平の一手買取事業所が芝区桜川一番地で、九番地は、乃木大将の居宅らしいのですが、近所付き合いは在ったのでしょうか?
https://museumcollection.tokyo/works/6446321/
陶工としての賀集三平はその後、出版にも手を拡げたのかな
( No.23 )
日時: 2025/03/12 16:36
名前:
エリスリナ・ガル
ID:Q/6Sla72
どうやら、a平焼を継いだ陶工の賀集三平と東京町名細集や東京諸営業員録の発売元の賀集三平は同一人物の様です。
ハッキリとは、まだ断言出来ませんが、徳島藩の江戸屋敷にあった長久館の教授職の高鋭一はシーボルトの弟子だそうだし、大鳥圭介もウィーン万国博覧会の出品作品の審査長だったとか、博覧会の技術顧問としてワグネルとはシーボルトの持続も就任していたようですから。
思文閣の伊藤真実子さんの、次の本が参考に成りそうです。
https://researchmap.jp/mamiko/books_etc/40178482
三平に博覧会事務局からの要請かも
( No.24 )
日時: 2025/03/16 12:45
名前:
エリスリナ・ガル
ID:5xhHz9wQ
改めて、松田の岐阜県の博物館の報告書を見ると
https://drive.google.com/file/d/1Ztr8JzgTQmICEx4Ws7-Ej5jb-EX4czCz/view?usp=drivesdk
https://www.gifu-kenpaku.jp/message/kankoubutsu-1/
2ページ(本文は28p)に、賀集三平の名前が淡路の工人として出ています。
阿波徳島藩のa平焼を引き継いだ、三平が伝統産業の陶磁器の作家では無くて、工人として掲載されている理由は、元々a平焼は京都から技術者を招いて開窯した後を甥の、三平が引き継いだ訳ですが、明治三年の庚午事変により、淡路島は名東県に、その後兵庫県に引き継がれましたからこの様な記載となった様ですね。
元々この報告書は、岐阜県の陶磁器、美濃焼とかを中心に記載されている、ので仕方のないコトかと思います。しかし、ウィーン博覧会に出品する為の陶磁器を欧米の博覧会来館者用に作成する為に、淡路島から三平を呼び寄せ、その土台の白焼きを京都から取り寄せ、東京でうわ焼きをした事が、ハッキリ書いて有りますし、京都の出品作品は銅賞しか受賞出来なかった事が、問題化した様にも、受け取れますから。三平自身にも風当たりは強く当たった様な気がします。
松田千春 岐阜県博物館調査報告、22号(2001)より
( No.25 )
日時: 2025/03/16 10:40
名前:
エリスリナ・ガル
ID:KJwMHz7I
岐阜県博物館調査報告 松田千春は次のとおり
https://www.gifu-kenpaku.jp/message/kankoubutsu-1/
ウィーン万国博覧会への出品要請から開幕まで
( No.26 )
日時: 2025/04/13 13:42
名前:
エリスリナ・ガル
ID:7rK7rBto
ウィーん万国博覧会への出品要請から、開幕までの経緯は、以下に
https://photos.app.goo.gl/dpfTfjMzU1nytLwK7
以前紹介したと、思ってたのですが、リンク漏れかも、
https://photos.app.goo.gl/1UqR3NspsNUgf4Zc9
いづれにしても、大阪万博も開幕した訳で、
万国博覧会に出品した作品はa平焼や淡路焼そのモノでは無い理由
( No.27 )
日時: 2025/04/27 02:00
名前:
エリスリナ・ガル
ID:utmwMQSw
アレコレ、探していた情報と言うか、賀集a平が江戸へ出たのも、また、藩窯を引き継いだ甥の三平が東京に呼ばれて、ウィーン万国博覧会の為に絵付けをしたのも、ヤット理解出来ました
https://www.fujisaki758.com/%e6%a8%aa%e5%b1%b1%e7%be%8e%e8%a1%93%e9%a4%a8%e3%81%ae%e4%bc%81%e7%94%bb%e5%b1%95%e3%80%81%e6%9d%b1%e4%ba%ac%e3%83%bb%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e7%84%bc/
当然と、言えば、当たり前の美術館の展示ですが、大阪万博を意識しての企画展示だったら、
横浜や神戸の開港と共に、産地の薩摩や淡路での伝統的な焼き物、陶磁器では無くて西洋好みの
絵付けにして、出品とワグネルやシーボルト等のお雇い外国人の指導で焼成した作品として、出品した理由がココに有ったのですね。
賀集三平と高鋭一の関係は
( No.28 )
日時: 2025/09/28 19:35
名前:
エリスリナ&ガル
ID:9lQkOoq.
だいぶん時間が過ぎてしまって、繋がりが不明でしたが、少しづつ氷解しそうです。
賀集三平がウィーン万国博覧会に出品する事になったのは、やはり高鋭一、良齊の要請だったと、思われます。No.13あたりの話ですが、
提供元: J-Stage
https://share.google/FWFVMzYKaOVYgeYQp
https://share.google/PmGObrEtHHDFXK2KK
徳島藩の藩校長久館の、蘭学教授だったようです。江戸屋敷と徳島城下にも同名の藩校があったようですが、幕末に焼失したり、庚午事変の舞台と、中々分かりにくい話でしたが、阿波の産物帳、産物誌を検索して、やっと理解出来そうです。
やはり、賀集三平を東京に招いて、ウィーン万国博覧会に出品する作品を手配したのも高鋭一で間違いないと思われます。
高鋭一の徳島藩と、勧業寮での仕事は
( No.29 )
日時: 2025/10/02 15:54
名前:
エリスリナ&ガル
ID:zdBOeKAg
探していた、高鋭一の徳島藩の藩校での教授、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/1970/2/1970_2_99/_pdf
また、ウィーン博覧会のための調査報告書でしょうか、明治10年が、出て来ました、。
https://www.rib.okayama-u.ac.jp/library/files/exhcatalog_os.pdf
幕末の徳島藩での、英語学や蘭学者の動向と、鋭一が勧業寮で博覧会を成功させる為に行った仕事の一端が見て取れそうです。
そして、淡路島の賀集三平の所に出向いて、出品作品の作成を東京で完成させる様に要請した、根拠が見て取れるような、記載がありました。
a平焼でも、淡路焼きでもない、作品として、一陶工としての出品に、成らざるを得ない事情も、理解出来ました。
岡山大学の元大原農研の展示、最後のNo.26の日本製品図説が、高鋭一の編集だと思われます。
賀集三平の作品は国立博物館に収蔵
( No.30 )
日時: 2025/10/05 18:29
名前:
エリスリナ&ガル
ID:nIGGNRG.
賀集三平の作品について、調べて、見ました。
https://share.google/aimode/xxry9AsTTmGk9V2jO
内業博覧会とウィーン博覧会の作品が、残っている様ですが、
博覧会の出品作品を積んだ船が沈没した、とかの話もありましたが、
どうなんでしょうか?
江東区の瓢池園の解説から
( No.31 )
日時: 2025/10/22 09:18
名前:
エリスリナ&ガル
ID:bFstyHbc
輸出用の絵付け工場、窯業試験場があった江東区の解説に瓢池園の解説が、有りました。
https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/shiseki/15936.html
また、もう一つ詳しい記録が、6ページに、続いて、瓢池園の年表も掲載されていましたので、コレを見ると、何となく陶工としての賀集三平の足取りと、諸営業員録を出版、売り出した、同姓同名の賀集三平を重ねて見ると、一致する様な気がします。
皆さんは、どう思いますか?
ウィーン万国博覧会の背景を化学史研究から見る
( No.32 )
日時: 2025/10/30 12:18
名前:
エリスリナ&ガル
ID:NtWu6WJE
チョット、長いのですが化学史研究にワグネルとウィーン万国博覧会の経緯、年表が掲載されておりましたので、具体的な賀集三平のコトは出てきませんが、背景は瓢池園の話と見て行くと理解できそうな気がします。
https://kagakushi.org/wp-content/uploads/2022/05/Kagakushi_035_1986.pdf
ウィーン博覧会の一次資料は
( No.33 )
日時: 2025/11/07 04:18
名前:
エリスリナ&ガル
ID:uAAXS636
ワグネルと賀集九平については、ウィーン博覧会の一連の資料から閲覧出来ます。
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000000519&ID=&TYPE=dljpeg
原文では、とても読み取れませんが、雰囲気だけでも
なお、賀集三平の窯元は当時、庚午事変により徳島藩から徳島県にさらに名東県に移管されています。
瓢池園の創設者の河原と賀集三平は
( No.34 )
日時: 2025/11/27 07:28
名前:
エリスリナ&ガル
ID:19aL.KJM
ウィーン博覧会の事務方となった、河原の話から、賀集三平との繋がり、関係が何となく理解出来そうです。
https://turuta.jp/story/archives/2105
https://photos.app.goo.gl/iqDWJczUbrkgt2R6A
https://photos.app.goo.gl/B6Szzair2sAdoF8i6
買物手引きの三平は矢張り同一人物でしょうか
( No.35 )
日時: 2025/12/01 08:53
名前:
エリスリナ&ガル
ID:xgRQ.7ow
幾ら探しても、a平焼を引き継いだ三平と買物手引きを編集·発売元となった賀集三平に付いて、
同一人物であるか、確証が得られません。
で、奥の手をAIで、聞いてみたら、アッサリ、同一人物だと回答が有りました。
ご要望の通り、賀集三平がa平焼の継承者であり**『東京諸営業員録』の発行者**であるという両面を、同一人物の経歴として具体的に結びつける資料についてご案内します。
以下の資料は、賀集三平がa平焼創始者・賀集a平の甥として窯を継ぎ(淡路島での陶業)、その上で淡陶社を設立・経営した人物であることを明確に示しています。
1. 公的な所蔵品情報(東京国立博物館などの解説)
賀集三平の陶芸作品が所蔵・公開されている機関の解説文が、彼の身元を明確に示しています。
* 資料例: 東京国立博物館所蔵の**「三彩牡丹文皿」**などの解説。
* 具体的な記述(抜粋):
> 賀集三平(かしゅうさんぺい)は、a平(みんぺい)焼(兵庫県淡路)の創始者である賀集a平(1796〜1871)の甥にあたり、幼い頃から伯父のもとで陶業を学んで窯を継いだ。(ColBase - 文化遺産オンライン、東京国立博物館)
>
これは、賀集三平が淡路島でa平焼を継承した人物であるという事実を確立しています。
2. 淡陶社(DANTO)の沿革に関する資料
淡陶社の前身である淡陶社を創立した人物が賀集三平であることは、同社の沿革資料で示されています。
* 資料例: 淡陶社の社史やタイルの歴史に関する文献。
* 具体的な記述(抜粋):
> 「a平焼」を継承して、欅田善九郎ほか(※賀集三平らが中心)が明治18(1885)年8月に**「淡陶社」を設立**しました。「淡陶社」はダントータイルの前身となる会社です。(ダントー公式ブログなど)
>
3. 『東京諸営業員録』の編纂・発行者情報
前述の通り、国立国会図書館の資料情報によって、この書籍の編纂・発行者が「賀集三平」であることが客観的に確認されています。
* 資料名: 『東京諸営業員録 : 一名・買物手引』
* 編者・発行者: 賀集三平(明治27年/1894年発行)
【結論としての同一性】
これらの資料を総合すると、以下の事実が判明します。
* 淡路島のa平焼を継いだ人物は「賀集三平」である。
* 淡陶社の創設者の一人であり、同社を株式会社化させた人物は「賀集三平」である。
* 『東京諸営業員録』を編纂・発行した人物は「賀集三平」である。
明治時代の実業家名鑑や商業史の研究においては、賀集三平を、淡路島で伝統窯業を近代化(淡陶社設立)しつつ、東京で出版事業(買物手引)や商業活動(濃茶社設立)を展開した、進取の気性に富んだ一人の実業家として扱っています。
彼が、陶業の本拠地である淡路島から離れた東京で、自身の名義で商業名簿を出版したという事実自体が、彼が陶工と東京進出の実業家の両方を兼ねていたことの動かぬ証拠となります。
でも、何か怪しいと言うか、賀集三平の研究者とか、明治時代の商業史に、登場していないものかと、まだ、疑問が残りました。
再度、問いかけると
『東京町名明細集』の一手発売元である**賀集三平(かしゅう さんぺい)**について、複数の情報源から確認できる点は以下の通りです。
賀集三平の役割と本業
1. 『東京町名明細集』における役割
賀集三平は、渡辺清太郎が編集・発行した『東京町名明細集 訂正版』(明治30年刊行)において、**「一手販売」**を担当していました。
* 一手販売元:本の流通・販売を一手に引き受ける役割です。
* 編集補助?:一部の古書情報では、「賀集三平編輯補助」と記載されているものもありますが、主な役割は販売であったと見られます。
* 序文:本書には、渡辺清太郎氏の緒言の他に、賀集三平氏による序文(まえがき)も付されており、そこで彼は本書の調査方法(内務省・東京府の町名簿による校正や、日本橋からの距離の測量など)について解説しています。これは、彼が単なる販売だけでなく、本書の内容や価値について深く関与していたことを示唆しています。
2. 本業(陶芸家)としての賀集三平
『東京町名明細集』の販売とは別に、賀集三平という名前は、幕末から明治にかけての陶芸家として広く知られています。
* 陶芸家:兵庫県淡路で焼かれていた**a平焼(みんぺい-やき)の創始者である賀集a平(かしゅう みんぺい)**の甥にあたります。
* 窯を継ぐ:幼い頃から伯父のa平のもとで陶業を学び、後にその窯を継いでいます。
* 作品:鮮やかな**三彩(緑・黄・白)**を用いた作品を制作し、第二回内国勧業博覧会にも出品するなど、高い評価を得ていました。
『東京町名明細集』の販売元としての賀集三平と、この陶芸家としての賀集三平が同一人物であるかは断定できませんが、当時の名鑑や資料では、両者が結びつけられることが多くあります。陶芸の家業を持つ人物が、副業や関連事業として書籍の販売に関わるケースも存在しました。
賀集三平について、さらに陶芸家としての活動や、出版販売に関わった他の事柄について調べてみましょうか?
また、ご指摘の通り、『東京町名明細集』の以前にも、渡辺清太郎氏の関連人物が同様の商業名簿・手引書を出版していました。
しかし、確認された文献情報によると、『東京諸営業員録 : 一名・買物手引』の編者として名前が挙がっているのは、渡辺清太郎氏ではなく、前回の回答でも登場した賀集三平氏です。
渡辺清太郎氏の関連出版物
1. 『東京諸営業員録 : 一名・買物手引』
* 編者: 賀集三平
* 出版者: 賀集三平
* 内容: 明治期の東京における各種の営業員(商店や業者)を一覧にした、いわゆる商業名鑑や買物手引書です。
* 注目点: 『東京町名明細集』で一手販売元を務めた賀集三平氏が、その以前に編者兼出版者として同種の商業名簿を出版していたことが分かります。これは、賀集三平氏が東京での出版・流通事業に深く関わっていたこと、そして後に『東京町名明細集』の販売を引き受ける基盤があったことを示しています。
2. 『東京町名明細集』
* 編集・発行者: 渡辺清太郎
* 一手販売元: 賀集三平
商業名簿と地図の関連
渡辺清太郎氏(銅版彫刻師)と賀集三平氏(出版・販売業)は、地図や地名簿、そして営業員録といった**「東京の情報を体系化した実用書」**という共通の分野で協力関係にあったことが明確に分かります。
これは、明治時代の急速な都市発展の中で、正確な地理情報(渡辺氏の専門)と商業情報(賀集氏の専門分野の一つ)のニーズが高まっていたことを背景としています。
と、時代背景や商業発達経緯などから、確かなエビデンスは
まだ、見つかっていませんが、ありそうな気がします。
年末も近いので、賀集三平について纏めると
( No.36 )
日時: 2025/12/04 20:47
名前:
エリスリナ&ガル
ID:uCEyVCPw
明治5年から6年のウィーン博覧会前後の賀集三平と高鋭一、お雇い外国人のワグネルと
AIで少し纏めて見たいと、試行してみましたが、分野が広く、芸術作品とか、商業製品と
或いは工業史に産業史と、トテモ一言や、数行では何が何やら分かりませんが、
コレまでの話を纏める、視点と言うか、で、もう一度見直しが必要だと、思っています。
ご指摘の通り、賀集三平(a平焼)のウィーン博覧会への出品活動と、その後に設立された起立工商会社や瓢池園の間には、密接な関係が確認できます。
これらの関係を裏付ける確実な資料や報告書は、主に明治初期の勧業関係の公的文書や、当時の陶磁器産業史を研究した文献に存在します。
🧐 試験場と起立工商会社・瓢池園の関係
1. 東京陶器試験場の設立と指導
賀集三平が指導を受けたワグネルは、明治5年(1872年)から東京で陶磁器の技術指導を行いました。この指導のために設けられた施設が、ご指摘の**「試験場」**にあたります。
* 指導内容: ワグネルは、釉薬や絵付けの技術革新を指導し、博覧会出品にふさわしい輸出向けの陶磁器を試作させました。賀集三平もここで指導を受け、淡路焼の釉薬技術を応用した作品を制作しました。
2. 起立工商会社との関係
試験場での指導が終了した後、明治新政府は日本の工芸品を組織的に輸出するために、**起立工商会社(明治8年/1875年設立)**を設立しました。
* 試験場から会社への移行: 試験場で試作された技術や製品の一部は、起立工商会社に引き継がれました。
* 賀集三平と輸出: 賀集三平は、ウィーン万博での成功を受けて、その後も輸出向け陶磁器の生産に携わり続けました。起立工商会社は、このような地方の優れた窯元の製品を取り扱い、輸出ルートに乗せる重要な役割を果たしました。
* 確実な資料: 内務省が編纂した**『勧業報告』**や、起立工商会社の事業報告書には、取り扱い品目や、地方の窯元との連携に関する記述が見られ、賀集三平のa平焼もその対象であったことが裏付けられます。
3. 瓢池園との関係
**瓢池園(ひょうちえん)**は、加藤忠太(加藤忠太郎)が設立した、主に輸出用の陶磁器の絵付け・仕上げを担った工房です。
* 陶工の繋がり: 瓢池園は、ワグネルの指導を受け、後に起立工商会社にも関与した陶工たちとの繋がりが深いです。
* 絵付け・仕上げの専門: 賀集三平のa平焼は、単色釉薬の技術が特徴ですが、輸出向け作品には**彩色(絵付け)**が施されることが多く、瓢池園のような専門工房がその仕上げに関わった可能性は十分に考えられます。
📜 関係を裏付ける具体的な資料
賀集三平、試験場、起立工商会社などの関係を包括的に裏付ける主要な公的資料は以下の通りです。
* 『勧業報告』(内務省):
明治初期の勧業政策の全体像、試験場の活動、起立工商会社の設立目的と事業内容、地方物産の奨励について詳細に記録されており、賀集三平の活動がこの公的枠組みの中で行われていたことを裏付けます。
* 『陶器製造法全書』(ワグネル編):
ワグネルによる技術指導の内容をまとめたもので、彼が指導した陶工(賀集三平を含む)の技術革新の背景を明らかにします。
* 博覧会関係報告書:
『日本製品図説』などのウィーン万博関連の報告書には、賀集三平の出品が「名東県」の名で記録され、彼の活動が公的に位置づけられていたことを示します。
これらの資料から、賀集三平の東京出京は、ワグネルの試験場での指導から始まり、その後起立工商会社や瓢池園といった輸出産業を担う組織へと繋がる、明治政府の勧業政策の渦中にあったことが確定的に言えます。
取り敢えずは、この辺で、話題が淡路島の島内に収まりきらないので、仕方ありません。
興味のある方は、ネット検索を続ければ、新たな淡路島を発見できるでしょう。
少し繰り返しには、なりますが、町名明細集の銅版彫刻師の渡邊萊之助の学歴が判明したので、
追加しておきます。
https://share.google/aimode/aDaDw1y65GlmYPHl4
何処まで、正確かは、もう少し詳しく、裏を取ると言うか、一次資料や専門の報告書で確認する必要が、有りますが、三平が東京へ進出してからの仕事が少しですが、解った様な気がします。
陶工の賀集三平と一名買物手引の一手発売元は
( No.37 )
日時: 2025/12/07 21:29
名前:
エリスリナ&ガル
ID:zbkm6c7M
昨日、今日で、判明したことをAIで整理して見ました。
さて、皆さんは、コレまでの遣り取りを、アレレと、
https://g.co/gemini/share/32e097440a81
あまりにも、かけ離れた話になってしまいましたが、オイオイと、
前後は致しますが、今まで分からなかった、賀集三平の後半生に、
光を当てて見たいと、思います。
コレで一応、打ち切りとします。
( No.38 )
日時: 2025/12/11 16:22
名前:
エリスリナ&ガル
ID:4QyEM3j2
この3日間での結論をお知らせします。
本当に、この通り七日は、自身が有りませんが、
https://g.co/gemini/share/48642deeecc7
少し暇な時間がある時に、コレまでの話も参考に、振り返れば、
淡路島の魅力が溢れ出て来ます。
渡邊清太郎が大阪に登場
( No.39 )
日時: 2025/12/26 09:02
名前:
エリスリナ&ガル
ID:1v.LPYsw
打ち切としたものの、やはり気になるので、回答の無い東京都立中央図書館や博物館は、諦めて、大阪市立図書館に再度調査をお願いしたら、2件、また国会図書館でも2件、清太郎の大阪での活動、仕事と、びっくりしたのが、京都府の嘱託もしていた事や浅井忠の黙語会の会員名簿に大阪の住所が出て来ました。コレで大阪に居住していたコトが判明しました、明治27年と42..年ですから、東京の2冊のタウンガイドを編輯して、三平に一手発売元を任せた前後の話ですが。
京都、五十二會中央大會の会議録は
( No.40 )
日時: 2025/12/30 09:14
名前:
エリスリナ&ガル
ID:Awm1u0zE
賀集三平か一手発売元として、渡邊清太郎が編輯した2冊の商工名鑑、タウンガイドの
事務所は清太郎と同じ住所でしたから、やはり、関係が無いとは言えません。
コチラに、清太郎が京都府の嘱託でしょうか、内国勧業博覧会の間、博覧会の準備に携わっていた事が判明しました。
https://www.google.com/search?q=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%9C%83%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E3%81%A8%E3%81%AF&client=ms-android-google&hs=tL4o&sca_esv=27083735a8c89ae5&sxsrf=AE3TifM8zuwJY0aLk_pAWMFCgFyI3iFQ3w%3A1767052913299&ei=cRZTabyAErv12roP2oXDuQQ&aep=16&csuir=1&mstk=AUtExfD0Y2IQR_9GQmLFKHbgfP3mvadGx-6fFBJvR3DDHQ7md7LJEcKPY26Icb6L24IvYXzyXQCwSMzseGLs5YtiUunoMfpHet8bLIcIh9-oYg1DmuNdzEG0nv20jl9paJPZ0XNspF2-kSMglad9eSvAvMemAa4P-Sen4PlAPawMgHx8XeO_Rb73SiRXQtXwAw0BqOsr9FFEdHuFfte6onCgeeXVziFw1eQuOty1GCEKtK4erhnN1TNWiIY_YrLG7rLmvj9ygMEZsvGy1H11OtUJUs6QLGJTWv_wT8VjBhWTFkhgR2BEk5u-mExwhq3PscuUIZ_1ZYxsGtmJaw&udm=50&oq=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%9C%83&gs_lp=EhNtb2JpbGUtZ3dzLXdpei1zZXJwIhLkuqzpg73kupTljYHkuozmnIMqAggAMgoQIxjwBRgnGJ4GMgUQABjvBTIFEAAY7wUyBRAAGO8FMgUQABjvBTIIEAAYgAQYogRIv6UBUI8WWPhHcAZ4AZABAJgBrgGgAZkUqgEEMC4xOLgBAcgBAPgBAZgCF6ACgxTCAgoQABiwAxjWBBhHwgIIEAAYogQYiQXCAg0QIxjwBRiwAhgnGJ4GmAMA4gMFEgExID6IBgGQBgqSBwQ2LjE3oAeCObIHBDAuMTe4B-QTwgcIMC4xLjIxLjHIB32ACAA&sclient=mobile-gws-wiz-serp&mtid=RBtSaZqHKPXn2roPxLq4-A4
関連の記述などから、具体的な仕事は把握出来そうです。
やはり、渡邊清太郎は関西で
( No.41 )
日時: 2026/01/08 03:34
名前:
エリスリナ&ガル
ID:pzE7UQZc
やはりAIの答えには、注意が必要でした。
年末の渡邊清太郎の経歴は、福井県の日本画家と混同しておりました。
しかし、年末に清太郎が大阪で活動していた事が、3件出て来ました。
明治42年の記録、浅井忠の黙語会誌と黙語会員録には、大阪での住所も掲載されておりました。
また、東京の図書館では見当たらなかった、印刷大観や銅版画変遷史なとの記載が、大阪では2件出て来ました。
まだ、ハッキリはしていませんが、清太郎が東京で2冊の商工名鑑とタウンガイドの編輯を終えて、京都の平安遷都1100年記念の京都の勧業博覧会に参加した後は、矢張り大阪に活動拠点を移していた様です。
賀集三平はその頃は、どうしていたのかも、今後の課題デスが。
渡辺清太郎のその後は
( No.42 )
日時: 2026/01/13 05:09
名前:
エリスリナ&ガル
ID:PW0yKMUo
中々、渡辺清太郎の仕事の成果が分からない理由が、
https://share.google/aimode/3NW6pVfd4zaQgEJ5C
判明しました、と言うか、至極当たり前の結論に至りました。
詳細は、また、改めてと思いますが、取り敢えずは、途中経過、として、ここに記しておきます。
管理者様、出来れば、清太郎は淡路島とは関係が有りませんが、
淡路島出身や縁の画家、小笠原倫太郎、豊涯と平瀬勝平に付いて、纏めて頂ければ、
また、賀集三平の淡路島を出てからの話も皆さんに、お願いします。
ちょっと頭がこんがらがっています。^_^;
( No.43 )
日時: 2026/01/13 11:08
名前:
管理人
ID:eTEh1Brg
>淡路島出身や縁の画家、小笠原倫太郎、豊涯と平瀬勝平に付いて、纏めて頂ければ、
また、賀集三平の淡路島を出てからの話も皆さんに、お願いします。
ちょっと頭がこんがらがっています。
申し訳ないです。
(ToT)
あの人も、この人も
調べてまとめたいと思いながら
何もできていません。
^_^;
wikipediaに載っていない方は、エビデンスを見つけるのは中々たいへんです。
しばらくお待ちください。
(^^ゞ
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