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[9] 淡路島出身有名人の輪 賀集
日時: 2012/02/15 11:44
名前: 管理人 ID:z8RmO48s

俳優に賀集利樹っていますよね。
仮面ライダーで主役を演じた男前です。
苗字の賀集って、私の田舎の名前と同じで何か繋がりがあるんだろうか?
っと、思ったりしていました。

Wikipedaで調べて見ると、尼崎出身とあります。
でも、親の実家が賀集かなとか思ったりしていました。
そして、先日田舎で私の親に聞いてみると、やはり両親の出身が淡路島だそうです。
大きい家だとか!

なんだかんだと、こんなふうにみてみると有名人の輪も広がっていきますね。


写真は、いつのまにか美しくなっていた賀集小学校です。

追記 2021.7.5)
私の親の話ですが、たぶん勘違いしていると思われます。
賀集利樹自身が祖父が沼島で生まれ育ったと言っています。
ですから、私の親が言っているのは淡路鉄道の創業者の賀集新九郎の事だと思われます。

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賀集一族の説明 ( No.1 )
日時: 2012/01/19 10:19
名前: 土狸 ID:L3YyLrKk

海文堂書店のこと(1)
http://www.mizunowa.com/soushin/omeme_file/omeme_bn7-9.html

1914年(大正3)6月、賀集喜一郎が神戸駅近くの多聞通6丁目に「賀集書店」を開業、一般書籍・雑誌販売と海事図書の出版を始めた。
喜一郎は淡路出身。
一族は淡路各地で庄屋職の家柄で、江戸末期に醤油醸造や陶器製造などの産業を興したa平、
明治前期に淡路一の大地主になった隆造、その弟で淡路紡績専務・三原郡長の寅次郎、
隆造の子で淡路鉄道創設者の新九郎らを輩出している。


他にも将棋棋士の賀集正三などがいますね。

※間違えて別のスレッドに投稿してしまいました申し訳ありません。
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賀集盛政の説明 ( No.2 )
日時: 2012/01/19 10:25
名前: 土狸 ID:L3YyLrKk

賀集杢之助盛政  賀集鍛冶屋城主

守護細川氏の家臣   吉川 船越 広田 賀集 福良 安宅 管 野口 
応永33年 1426年 賀集舘主の賀集美濃守  賀集村万福寺を建立寄進
嘉吉2年 賀集次郎左衛門康愛 鶴島城主福良石見守融通 久米但馬明珠連名で 鍛冶刑部
を任用 賀集庄鍛冶屋村所領を命ず  その後宗長名の鍛冶工が鍛冶屋村に居住
賀集三吉郎の妻は鶴島城主福良太良保吉の娘
長禄2年 賀集美濃守公文 賀集村 城之越に鍛冶屋城を築く
8月11日福良蔵人太夫政貴 賀集美濃守ら11名 賀集山 護国寺へ灯油田二反寄進
文正1年 鍛冶屋城主は賀集備後守 (妻は岡之城主福良伊重の妹)
文明3年 2月11日賀集美濃守安親 賀集山護国寺へ逆修寄進
  従文明三辛卯寄進申下地事 合壱段大 分米七斗 在坪平井尻
  右 此下地者 為高階美濃守逆修 一後間 夏末不斷経非時料仁寄進申状
     貫文明三年辛卯二月十一日      賀集美濃守安親 (花押)
永正17 淡路守護細川尚春 三好勢に攻められ淡路細川家滅亡(下克上の戦い)
福良岡之城主福良式部寛治 叔母の賀集城主賀集備後守方へ寄住
永禄1年 前鍛冶屋城主 賀集美濃守安親没
元亀2年 賀集鍛冶屋城主は賀集備後守好近
天正9年 鍛冶屋城の賀集盛政生前供養の桜塚を市村青木に建立 (現存)
天正11年 賀集杢之助盛政 豊臣家に仕え出陣
 某は藤原氏賀集美濃守公文の末裔なり 然るに此美濃守三種の直判三個の子孫に
 與ふ如き其一を得て貴ひ守る 今大君に随いて他に行 このゆえに汝に此相伝の手判
 並びに家宅財産等ゆずりあたう 以て先祖の恩に報ずべきなり
 天正十一年八月二日  藤原朝臣賀集広之丞殿   賀集杢之助盛政(判)
天正13年 洲本城主に脇坂甚内安治三万石 賀集鍛冶屋城の賀集杢之助盛政 脇坂氏に仕える
慶長14年 洲本城主脇坂安治 伊予大洲城五万三千石へ転封   次男安元はのち信州飯田城主
鍛冶屋城の賀集盛政 賀集家を弟の広之丞に譲り 主君脇坂安治に従い伊予へ移住
元和2年 8月6日 賀集杢之助盛政 伊予大洲で没
元和3年 賀集盛政の息杢之助盛親 主君脇坂淡路守安元の信州飯田転封に従い箕輪代官に赴任
箕輪郷 木下陣屋に住む  菩提寺は養泰寺(伊那郡箕輪町大字中箕輪木下12680)
賀集家 加集に改姓
賀集家の子孫 加集盛親 盛計 盛之 盛次(右近盛政弟)盛孝 勝俊 鳥飼理右衛門
寛文12年 飯田藩主脇坂安正(歌人 八雪軒) 播州龍野へ転封
延享4年 大泉新田の村民 杢之助の徳政を讃え 同地の氏神熊野三社に「加集明神」として祀る
  通称 「加集権現」箕輪町大泉
 参考 人形使い「傀儡子」の起源        傀儡師波の淡路の訛かな 青嵐
文治元年賀集八幡神社楽人の舞楽経費を起請  三条に楽料田「ガク」30町歩所有
護国寺に隷属し神事舞いを職業とする楽人 市三条に住み諸寺諸山の供養に奉仕
元亀元年引田源之丞一座御所御節会に召され三社神楽を奉仕「日本第一冠諸芸衆能」
正徳年間 淡路の人形座は四十八座 930人
  安永年間 市村三条の人形使い久蔵 信州箕輪上古田の大庄屋大阪屋に借地して
家を建てて住み人形操りを伝える  「古田人形」   文化7年1月6日久蔵没
天明年間 淡路の人形廻し吉田重三郎が箕輪郷に留まり人形操りの技術を伝える 
天保3年桐竹門三吉田亀造 黒田人形(飯田市上郷下黒田)を伝える
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賀集氏の説明 ( No.3 )
日時: 2012/01/19 10:31
名前: 土狸 ID:L3YyLrKk

淡路・山背の万福寺
http://blog.goo.ne.jp/ushiki111/e/b3715f767fc13ed3fcd1aa7a14b9c0df

室町末期に賀集氏が備後より阿波を経て当地に領主として移り、城を構えた時に復興され、今日に至る。


賀集館跡
http://www.siromegu.com/castle/hyogo/kasyu/kasyu.htm

賀集館は、その名の通り淡路の国人賀集氏が居館していた。
「護国寺文書」によれば賀集氏は室町時代にその名を見ることができる。

 一方で、永禄年間(1558〜1570)以前に三善備後守が賀集荘にあり三好氏に属した。
やがて備後守は賀集氏を名乗るようになり、孫の賀集刑部の代になると鍛冶屋の西方の山頂に城郭を築いた。
さらに刑部の弟、杢助盛政は賀集八幡宮の南に移住した。
いずれも伝承の域を出ないものである。

 備後守が最初に居住していたとされる場所は「備後土居」と呼ばれており、ここから西へ約200メートルの先には万福寺があり、同寺境内の墓地には賀集氏の墓がある。
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賀集氏のルーツ ( No.4 )
日時: 2012/01/19 10:41
名前: 土狸 ID:L3YyLrKk

大伴氏族と久米氏族
br>淡道ノ凡直、波多門部造(録・右京。波多〔秦〕−淡路国三原郡波多郷人、大和大国魂社年預。阿間−住同郡阿間郷人、分れて遠江にあり。安間−遠江国引佐・長上郡人。
矢部、長田、賀集、穴賀、庄田、広田、白山−波多同族で淡路国三原郡人。河上−同族で津名郡人)。
なお、淡路史生で見える榎本直も淡道国造同族か。


波多門部氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02129.htm


久米氏

波多氏(波多祝)
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無題 ( No.5 )
日時: 2012/01/19 10:52
名前: 土狸 ID:L3YyLrKk

何かゴチャゴチャしちゃって申し訳ありません。

江戸時代の庄屋の賀集家と室町〜戦国時代の淡路守護細川氏家臣の
賀集氏が関係あるのかわかりませんが調べてみました。
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貴重な情報、ありがとうございます。 ( No.6 )
日時: 2012/01/19 14:35
名前: 管理人 ID:iLC1fGoA

土狸様

貴重な情報、ありがとうございます。
まだまだ、知らない事がいっぱいありそうです。

私の地元の賀集なのですが、数十年前に旧賀集中学の近くから福井に入っていく道の脇に、とても大きな敷地に廃墟の建物跡がありました。
あれは、何か財閥家族が住んでいた跡のような感じでした。
未だに、不明です。

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賀集館跡かも ( No.7 )
日時: 2012/01/19 14:42
名前: 管理人 ID:iLC1fGoA

リンクの賀集館跡なのかな〜
と、思ったりもしますが、場所的に一致しない気もします。


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無題 ( No.8 )
日時: 2012/01/19 15:03
名前: 土狸 ID:L3YyLrKk

了解しました。

他にも賀集鍛冶屋石丸の城の腰城(鍛冶屋城)跡、
賀集八幡南土井の佐々木土居城(刑部屋敷)跡などがあるようです。

城の腰城
http://www.jpn-hayashi.com/cgi-bin/pjcasdetail.cgi?mode=%8F%DA%8D%D7&subject=c45974300
佐々木土居城
http://www.jpn-hayashi.com/cgi-bin/pjcasdetail.cgi?mode=%8F%DA%8D%D7&subject=c45973600
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賀集家 ( No.9 )
日時: 2012/09/06 06:15
名前: ID:IUs3z/nY メールを送信する

それは、賀集新九郎さんのお屋敷後と思います。
火災に遭い、その当時の建物はなくなり、今は土塀が残るのみですが、映画にも使われた程の立派なお屋敷でした。
今も、その場所には新九郎さんのお孫さんの奥さんがお住まいです。
明治に国民すべてが苗字を持つようになり、賀集を名乗った小作人も結構いらっしゃるようです。
ちなみに新九郎さんの一族は、お城を持った賀集氏とは別です。
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小学校のころの思い出 ( No.10 )
日時: 2012/09/06 20:13
名前: 管理人 ID:uDQUkJlQ

雛さん

こんにちは。

貴重な情報ありがとうございます。
私が小学校のころですが、廃墟になったあの建物跡の横の道を通ることがありました。
そのころは、まだ塀の中に入れて、ガレキなどが散らばってたと思います。
小学校の低学年ころの思い出なので、記憶もさだかではありません。
その後は、特に興味もなかったのですが、最近になって思い出しました。

でも、その建物跡が淡路鉄道の創業者の屋敷跡で、映画の撮影も行われたことを知り、
とても驚いています。
映画ですが、1960年の日活映画の「くたばれ愚連隊」のようですね。
主演が和田浩治、監督があの名監督の鈴木清順。
原作が原健三郎と聞いて、なるほどと思ったりしています。
映画の中で淡路鉄道の雄姿が見れるのは必見だと思います。
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ルーツを辿って ( No.11 )
日時: 2021/08/13 08:51
名前: マナブ ID:wvOTsaPg

管理人様

はじめまして。
この度、祖父のルーツを調べておりましたところ加集家と関わりが
ある人物がおり、淡路島 賀集で検索したところこちらのブログに
辿り着きました。
関わりがある人物とは私の曽祖母にあたる旧姓「加集よし」です。
祖父の戸籍に記載がありましたのは津名郡築狭村 加集武十郎妹、
加集周蔵長女とありました。
津名郡築狭村とは現在の洲本市千草甲のようです。
こちらに築狭神社というのがありますのでその辺りの村であったと
思われます。
淡路島には賀集という地名もあり一族の方も多いと思いますが、
先に述べました人物、加集周蔵、加集武十郎、加集よし、などは
ご親戚にあたりませんでしょうか…
加集よしの生年は天保12年です。
いずれにせよ加集家も名家と思われ、どのような経緯で夫婦になった
のかなど興味があるところですが、知る由もない事です。
もし手がかりなどあればご教示いただけましたら幸甚です。

最後に関西大阪で賀集姓の方に損保の担当をしていただいたことがあります。
響きのいい良い名前だなぁと感心しました記憶があります。
メンテ
残念ながらわかりません。 ( No.12 )
日時: 2021/08/13 23:39
名前: 管理人 ID:4bdJCIUA

マナブ様

こんにちは!

>淡路島には賀集という地名もあり一族の方も多いと思いますが、
先に述べました人物、加集周蔵、加集武十郎、加集よし、などは
ご親戚にあたりませんでしょうか…

残念ながらわかりません。
私は現在、神戸在住です。
賀集出身で高校までは淡路島で過ごしたのですが、学生時代には賀集さん、加集さんに有ったことも聞いたこともありませんでした。
俳優の賀集利樹さんの活躍や当掲示板を通じて賀集と言う氏名があることを知ることとなりました。
メンテ
そうでしたか… ( No.13 )
日時: 2021/08/14 07:27
名前: マナブ ID:r8uS9OWk

管理人様

ご返信ありがとうございます。

先日、南あわじ市に出向きました時に福良まで足を伸ばしました。
国道沿いに賀集建築事務所があり、賀集の交差点もございました。
一度も賀集姓の方とお会いにならなかったのは意外ですね。

私が祖父の生まれ故郷に興味を持ちましたのは、私が生まれた時は
既に祖父母はおらず父からの話でしか祖父母の話を知りません。
それと世の中に同じ姓の方がおられますが親戚ではないのか?とか
ごくごく身近な血縁者としか付き合いがなく、知らない世界を
こじ開けたいという興味も同時に湧きましたのが理由です。

おのころ島神社の鳥居建立に私の大伯父が携わっていた事を今回の
淡路島訪問で知った事でますます興味が湧きました。
今後も情報交換できればと存じます。
よろしくお願いいたします!
メンテ
よろしくお願いします ( No.14 )
日時: 2021/08/14 08:44
名前: 管理人 ID:t7lfiXN6

マナブ様

貴重な情報、ありがとうございます。

学生時代ですが、読書は好きでしたが、地元の歴史、地元の事は全く無関心でした。
故郷を離れ、幾年か過ぎて地元の事、淡路島の事に関心を持つようになったしだいです。
そして、新しい事実を次から次に知るにつれ驚いたり、誇りに思ったりの連続でです。

当掲示板をドシドシ利用してくだされば嬉しく思います。
無料のレンタル掲示板をスマホ対応に改造しました。
不便な事も多いと思いますが、よろしくお願いします。

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賀集一族? ( No.15 )
日時: 2021/11/16 18:39
名前: 賀集 ID:9DHLEs4E

私の苗字が賀集なんで、ずっと気になっていた賀集八幡神社に去年今年とお参りして来ました。淡路鉄道の創始者の賀集新九郎とは親戚関係にあるかどうかは分からないんですが、父や祖父の顔の系統が近いんですよね。それと、何の因果か現淡路交通の家系の方と20年来の親友です。
私自身は大阪生まれで淡路島に知る限りでは親戚は居ません。
賀集新九郎さんの子孫の方に一度お会いしてみたいなーと思ってます。
メンテ
「まだまだ知らない事っていっぱいあるんだろうな!」とー ( No.16 )
日時: 2021/11/17 22:29
名前: 管理人 ID:jegKrQJc

賀集さん

ホームページを運営していると、次から次へと新たな情報がでてきて驚いています。
つい先日も、YouTubeチャンネル「街録ch」を見ていると、政治家の立花孝志さんが淡路島ゆかりの方と知って驚いています。


「我々がまだまだ知らない事っていっぱいあるんだろうな」と思います。


淡路島ゆかりの有名人
https://awaji.kobe-ssc.com/wiki5.php

Youtubeチャンネル「街録ch」
https://youtu.be/MavjOp1xAxQ
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加藤嘉明は賤ヶ岳の七本槍の内の一本鎗 ( No.17 )
日時: 2024/08/09 05:56
名前: エリスリナ・ガル ID:zoAgKh4M メールを送信する

いつのことだったのか、土曜や日曜日の午後に再放送されてる番組に、お城の堀やため池の水を抜いて…と、言うのが有りました。なんとなく聞いていると、南あわじ市かな、現在は、志地城とか聞こえて来た様に思います。現在は廃城だと思いますが、キチンと堀が残っているなら史跡になっているようなトコロでしょうか?豊臣秀吉から、滋賀の琵琶湖の辺りの賤ヶ岳の合戦の一番槍で知られた孫六?ゆかりのお城なら、その後、伊予の松前に移封、松前城を築き、更に現在の松山城の主となったった加藤嘉明ゆかりの廃城でしょうか?どこかに、紹介された記事は、ないでしょうか?
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志知城 ( No.18 )
日時: 2024/08/09 07:25
名前: 管理人 ID:t21JmreU

「天正13年(1585年)加藤嘉明が一万五千石を領して志知城に入り、志知城が改修されと考えられている。文禄4年(1595年)加藤嘉明は六万石に加増され、伊予国松前に転封となり、その後は秀吉の直轄領となって代官が置かれたが、後に叶堂城に移され廃城となった。」とありますね!

志知城
https://www.hb.pei.jp/shiro/awaji/shichi-jyo/

志知城跡桜まつり
https://www.sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2024/03/31/76866/
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国産み神話と天山、久米氏? ( No.19 )
日時: 2024/08/11 21:37
名前: エリスリナ・ガル ID:kPHnWn.U メールを送信する

No.2の賀集盛政のトコロで、久米氏、久米但馬と出てきますが、もう少し詳しい記載とか、伝説はありませんか?
伊予風土記の逸文かな?に天山(アマヤマ・アメヤマ)が大和の天山・天の香具山だと思いますが、天から降って一方は大和に、そしてもう片方の山が伊予の松山近郊の天山と、なったそうです。山頂には天山神社があるようですが、その麓には来住廃寺が、かってはあったと、また、来住は官衙(カンガ)國の役所があったところで、久米氏の居住した場所として、知られているそうです。
確か、播磨風土記に、も、何か興味深い話は、ありませんか?淡路島が播磨や但馬に直接関係する理由ではありませんが、国産みの神話の世界だと、淡路島も佐渡ヶ島も、本州に九州や四国の次に、一雫で生まれた島ではなかった?とか、子供の頃に聞いた様な気がします。八雲もその辺に関心を寄せていたのかも!ギリシアの島に生まれ、また、アイルランドで育ったハーンの出身は、どちらになるのか、興味津津?
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賀集杢之助盛政って、何処かで? ( No.20 )
日時: 2024/08/15 02:16
名前: エリスリナ・ガル ID:dvjE/INY メールを送信する

あれれ、伊予の久米氏のコトに触れたから、気付いたのですか、加藤嘉明は志知城から、松前に城を作ったと、また、洲本城主の賀集…は、伊予大洲へ、確かNo.2と3で、賀集杢之助盛政って、あの、その、何処かに書いた、三善歩や三吉笑吉重政の祖先では、ありませんか?備後の守、現在の三次、当時は三吉とも書いていたらしい。と、今、気付きました。
静内の山田宮司の講演の話、移住物語に繋がっている様です。
いやはや、汗が。たらたら!
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頭が、ぐちゃぐちゃです (^^;) ( No.21 )
日時: 2024/08/15 02:53
名前: 管理人 ID:DlT9QhM.

頭が、ぐちゃぐちゃでーーー

???

の状態です。

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やはり、原典まで遡る事は重要ですね。 ( No.22 )
日時: 2024/08/18 07:21
名前: エリスリナ・ガル ID:gkH9n.JQ メールを送信する

確かに、秀吉の時代から幕末・明治維新までの歴史をこの掲示板に載せるのは、困難でしょうから。
少しでも、原点・原典に触れるとスッキリするかも?
徳島大学では徳島藩士の幕末の分限帳を閲覧するコトが出来ます。賀集一族が庚午事変で洲本を離れた徳島藩士だとしたら、賀集杢之助とか、盛政から検索すれば何処かに三善歩や三吉笑吉重政の祖先まで辿り着くと思います。
なお、三原郡内の賀集一族は徳島藩士と繋がりは?でしょうから、検索では見つからと、思いますが、江戸末期の稲田臣下と徳島藩の関係から想像すれば当然の事かもしれませんが?
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歴史上の有名人でなくても、庶民の歴史も ( No.23 )
日時: 2024/08/21 08:46
名前: エリスリナ・ガル ID:pZyoo.QY メールを送信する

 原点、原典に触れるコトと、最新のニュースや情報を得て、アッブデートするコトは勿論、その間の経緯にも敬意、いや注意を払わないと、思わぬ結論に達して仕舞います。

 その点、益習館の集いのHPは良く整理されていて、150年前の出来事も最近のニュースや記事も一度に、展示場で閲覧出来たハズなのにコロナの影響で多くの人の目に触れる機会を失ってしまったのは、残念でした…。
 しかし、この掲示板をとうして現在も、閲覧出来るのは本当に驚きの連続ですね〜 歴史には素人の門外漢ですが、エビータの伝説から司馬遼太郎の坂の上の雲にアルゼンチンの観戦武官のガルシア・ドメック大佐が、後のアルゼンチン友好の基礎を気付いていた、とか、だからこそ賀集九平が移住先のアルゼンチンでも活躍できたのかな?と、思います。

 またまた、横道・余談の話となりますが、庚午事変と徳島藩士として生まれた渡辺えい作の話に繋がりますから、淡路島の続きを期待して下さい。

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遊佐万之助は、あわじしまで何をしていた? ( No.24 )
日時: 2024/08/24 23:05
名前: エリスリナ・ガル ID:Mn2eeN6. メールを送信する

遊佐万之助、渡辺えい作の出生時の同居人?、は淡路島の洲本で徳島藩士として、紀淡海峡の防備に当たっていた様です。
また、庚午事変の時には、徳島藩士の砲銃隊の指揮者として稲田家臣を襲ったとして、流刑となり、新島の流人帳にその名を見る事ができます。
詳細は、ハーンの同僚としての渡辺えい作の項で話を進めるのが、良いとは思いますが、予告編として、ご覧ください。
由良の砲台とか、何処に万之助が配置されて居たのかは?ですが、幕末の淡路島に、詳しい方にも、参加していただければと、考えています。
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遊佐万之助は新島へ、 ( No.25 )
日時: 2024/08/27 23:43
名前: エリスリナ・ガル ID:8ey8OFWA メールを送信する

 新島の流人帳に遊佐万之助の名前を見る事が、できます。

https://drive.google.com/file/d/1zak1QxV_XUXSWSBugOF1IMfG1v0-ozTs/view?usp=drivesdk

明治3年の五月に庚午事変があって、その年の9月か、十月には東京に移送されたようですが、明治6年には赦免となって、解放されたあとは良く分かりません。
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渡辺央(なか)と言う、人物は徳島藩士? ( No.26 )
日時: 2024/09/01 05:52
名前: エリスリナ・ガル ID:yAOGYUr2 メールを送信する

 どうやら、コッチの様な気がしてしました。
徳島藩士で本草学・蘭学者、シーボルトの弟子だった高鋭一は長久館の教授をつとむたり、明治政府では勧業寮?とか、博覧会事務局でも活躍してたようどすから
同僚の渡辺央は砲銃方の教授職なら、新撰組や庚午事変の砲術隊の指揮を摂って益習館を襲撃した阿波藩士、遊佐万之助とも繋がりが有りそうな感じがします

https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000290449&page=ref_view 

如何でしょう…
メンテ
淡路島には徳島藩の牧場で軍馬を繁殖は? ( No.27 )
日時: 2024/09/04 18:31
名前: エリスリナ・ガル ID:2OUOb4ZY メールを送信する

 No.25の遊佐万之助の欄の最後に加集平左衛門とありますが、加集杢右衛門とは家系は違うのでしょうか?

 また、平瀬と野尻など、牧従?と有るのは、藩営の牧場や軍馬の繁殖を淡路島でやっていたのでしょうか

https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/densi/desiryou/ken/mon_kikakuten/ktoku19-1.pdf

メンテ

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